うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

さよならニルヴァーナ 窪美澄 著


人の心は相対的にポーズをとる。こういうことって、ある…。という要素が細かくたくさん描かれています。
実世界よりも人の頭の中のほうが広いということを文章にするなら、こういうことなのだろう。神戸連続児童殺傷事件とオウム真理教のようなカルト教団の要素を重ねたストーリーで、不思議な感覚になります。
この小説には「信じられる人がいないと感じる瞬間」や「それを因果関係のように結びつけてしまう心理」が多く描かれています。以下は設定として非常にキツいところなのですが、娘を殺された母親の母親(老婆)が、こんなセリフを発する場面があります。



「だって、あんた、娘、殺されて、お金いっぱい入ったんでしょ」



こういう人間の一面を描かれたものを読んで、ひどい話なのに孤独感が解消されるような感覚って、ありませんか。わたしはあります。
この部分を読んで、まだ記憶の薄れていない10月の読書時の感覚がリンクしました。「佐野洋子対談集 人生のきほん」で目にした、西原理恵子さんの母親が西原さんに向けて放った言葉(結婚したらその男にあんたの財産がいくんか、みたいなフレーズ)。身内のナマナマしさに疲弊してきた人は、この小説を読んで救われるような気持ちになることがあるかも。


この小説は、末尾の参考文献にラジニーシの本が挙げられているのも興味深いです。殺人者の少年の母親が傾倒する教団について、こんなふうに描かれています。

例えば、何か手に職をつけて安定した収入を得る、そういう考えを母は持たなかった。何かを信仰すれば、自分の人生は必ずいい方向に変わるはず。それが母の人生訓だった。
(135ページ「霧と炎」より)


ただ生きているだけなのに、ふと襲ってくる罪悪感。それを払いのけるために、殺人を犯すまでの精神状態に至る。
このプロセスを薄めた感情が日常に「ないもの」としたほうが殺人者になることを防げると考える人と、「なくはない」としたほうが殺人者になることを防げると考える人がいると思うのですが、わたしは後者です。この小説は、その中間に立とうとする試みがされているように見えました。ふと襲ってくる罪悪感を「毒親」だけにリバースしないためには、誰にでもある「性」についての記述は避けられない。そこもガッチリ描く姿勢に、力強さを感じました。