うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

門 夏目漱石 著


「明るさと暗さ」「冒険と非冒険」その対比の部外者のようにたたずむ、ある夫婦の日常が描かれています。その灰色の濃淡のグラデーションがとても美しく、ときにうっとりするような会話が繰り広げられます。
三四郎」「それから」に続く三部作の最終作という位置づけですが、伏線の張り方と回収のしかた、回収せずに置き去りにされた疑念の残余に、すでに「こころ」の夫婦の片鱗が見られると感じるのはわたしだけでしょうか。これはいつか、両方を読んだ方のお話をうかがいたいところです。
ひとつ前に読んだ「それから」は、この小説を読んだあとで思い返すと「and then」でも「after that」でもなく「finally」であったように思え、この小説がさらなる「それから(after that)」とも受け取れます。が、前後関係なくしてもこの小説には独自の世界があります。「草枕」に観られたような描写の妙が「人の心の描写」に反映されているのですが、それが夫婦の会話のリズムに織り込まれた場面では「半面(反面ではなく)」の描き方が二倍の輝きを放ちます。


流れを無視して、沁みた描写と会話を羅列します。

御米は自分の耳と頭のたしかな事を夫に誇った。宗助は耳と頭のたしかでない事を幸福とした。




「世間の広い方ね」と御米が評した。
「閑だからさ」と宗助が解釈した。




「御米、御前信仰の心が起った事があるかい」と或時宗助が御米に聞いた。御米は、ただ、
「あるわ」と答えただけで、すぐ「あなたは」と聞き返した。

宗助は地味な男性のようだけど、失望がベースにありつつのなにげない会話がいい。ときどき信じられないくらい残酷なことを言うことさえなければ、あのデリカシーのなさを除けば、かなり素敵な男性だと思う。いわゆる中二病の粒みたいなものが1ミリもない。まっすぐな傷を負った大人の男性の魅力がある。グルジ作品の登場人物の中では格段に素敵な男性ではないかな。女性のみなさん、どうでしょう。




この小説に出てくる女性「御米(およね)」は、重さをときにジョークで乗り越える。

「またヒステリーが始まったね。好いじゃないか小六なんぞが、どう思ったって。おれさえついてれば」
論語にそう書いてあって」
 御米はこんな時に、こういう冗談を云う女であった。

登場人物の中では主人公の妻「御米」という人物が最も複雑な心境を抱えているはずなのだけど、視点は夫の立場で進行する。そのなかにちりばめられる妻の心理描写に、「こころ」の第一部と似たものを感じます。




この夫婦の関係の描写をネタバレにならない範囲で紹介します。こんな表現が心に残りました。

小説や文学の批評はもちろんの事、男と女の間を陽炎のように飛び廻る、花やかな言葉のやりとりはほとんど聞かれなかった。彼らはそれほどの年輩でもないのに、もうそこを通り抜けて、日ごとに地味になって行く人のようにも見えた。または最初から、色彩の薄い極めて通俗の人間が、習慣的に夫婦の関係を結ぶために寄り合ったようにも見えた。

「習慣的に夫婦の関係を結ぶ」という表現をあたたかいと読むか冷たいと読むか、人生観でわかれそう。



必竟ずるに、彼らの信仰は、神を得なかったため、仏に逢わなかったため、互を目標として働らいた。互に抱き合って、丸い円を描き始めた。

ここは、このお話の大きなテーマなのだと思う。




この小説にはあまり感情的であったり刺戟的な言葉のやりとりがないのだけど、リズムで魅せていく描写がある。ここは「このビートに、ハートずっきゅんだわ〜」となった「記憶の四連発」

宗助は二人で門の前に佇んでいる時、彼らの影が折れ曲って、半分ばかり土塀に映ったのを記憶していた。御米の影が蝙蝠傘で遮ぎられて、頭の代りに不規則な傘の形が壁に落ちたのを記憶していた。少し傾むきかけた初秋の日が、じりじり二人を照り付けたのを記憶していた。御米は傘を差したまま、それほど涼しくもない柳の下に寄った。宗助は白い筋を縁に取った紫の傘の色と、まだ褪さめ切らない柳の葉の色を、一歩遠退いて眺め合わした事を記憶していた。

直接的な表現を用いずにその熱量を伝えていく技巧がすごい。もはや音楽やダンスの域。




国語表現の面では、「おっと、このように使うのか」という実例も。

向うでも何だか気が置けて窮屈だと云う風が見えた。

気の置けない」の逆の使い方。ただの遠慮よりも、もうすこし粘り気のあるもの。そういう場面で使われていました。




失望感で世の中が灰色に見えてしまうようなできごとに出会うことってありますね。そういうときに思考停止ではなく心動停止してしまうような描写も秀逸です。

その時彼は自分の呼吸する空気さえ灰色になって、肺の中の血管に触れるような気がした。

とっくの昔に失望しているのに、さらに追いこまれていく場面での描写。



髪の毛の中に包んである彼の脳は、その煩わしさに堪えなかった。昔は数学が好きで、随分込み入った幾何の問題を、頭の中で明暸な図にして見るだけの根気があった事を憶い出すと、時日の割には非常に烈しく来たこの変化が自分にも恐ろしく映った。

神経衰弱の自己観察描写。




神経が衰弱しながらも、誰よりも感情的であった過去の自分を見送っているところが、この主人公の独特な魅力。

昔のように赫(かっ)と激して、すぐ叔母の所へ談判に押し掛ける気色(けしき)もなければ、今まで自分に対して、世話にならないでも済む人のように、よそよそしく仕向けて来た弟の態度が、急に方向を転じたのを、悪(にく)いと思う様子も見えなかった。
 自分の勝手に作り上げた美くしい未来が、半分壊れかかったのを、さも傍の人のせいででもあるかのごとく心を乱している小六の帰る姿を見送った宗助は、暗い玄関の敷居の上に立って、格子の外に射す夕日をしばらく眺めていた。

この自己観察描写はさりげなく出てくるけれど、とても心に残る。




グルジのほかの小説を読んでいる人には、この部分がほかの作品を想起させるでしょう。

要するに彼ぐらいの年輩の青年が、一人前の人間になる階梯として、修むべき事、力むべき事には、内部の動揺やら、外部の束縛やらで、いっさい手が着かなかったのである。

「一人前の人間になる階梯」にある内部の動揺と外部の束縛。



正月を眼の前へ控えた彼は、実際これという新らしい希望もないのに、いたずらに周囲から誘われて、何だかざわざわした心持を抱いていたのである。

(中略)

年の暮に、事を好むとしか思われない世間の人が、故意わざと短い日を前へ押し出したがって齷齪(あくせく)する様子を見ると、宗助はなおの事この茫漠たる恐怖の念に襲われた。成ろうことなら、自分だけは陰気な暗い師走の中に一人残っていたい思さえ起った。

シャンカラ広田・再登場?!(笑)




わたしは終盤で出てくるこの心の変化がすき。

今までは忍耐で世を渡って来た。これからは積極的に人世観を作り易(か)えなければならなかった。そうしてその人世観は口で述べるもの、頭で聞くものでは駄目であった。心の実質が太くなるものでなくては駄目であった。

サンカルパができあがる直前のような心理描写。


この小説の中で3回出てくる「山気(やまぎ)」という言葉はラジャシックなビジネス・マインド表現としてすごく印象に残りました。サンスクリット語の心理用語は日本語化しにくいものが多いけど、漱石グルジの手にかかれば日本語化できてしまう。
漱石作品の中では地味な作品かもしれませんが、失望感に包まれた世界には外国の映画のような風情があり、わたしはこの世界の「淋しみ」のなかへ浸る時間に、なんともいえぬ深い味わいを感じました。自分の心に従って悩んできた大人にしかない魅力あふれる小説。薄暗いけど、むしろそこに明るさを感じるほのかなエネルギー描写がたまらない。関係性の練られ方は「こころ」よりも粘度が低く、会話の洗練度は「門」のほうが高いと感じました。わたしはこの作品、好きです。


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