うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

おせっかいと親切の境界 「攻めの親切」「守りの親切」


ヨガ仲間から「ついおせっかいを焼いてしまう性格」についての悩みを聞いて、それ以来「おせっかいと親切の境界」が興味深い題材になっていたのだけど、先日バスを降りるときに見た状況から、こんなことを思いました。



五感で認識できる親切には、鮮やかな親切とパステルカラーの親切があるようだ。
親切な行為をする側を主語にしたときは、そこに「攻めの親切」「守りの親切」というニュアンスが発現する。



バスを降りるときに見かけた女性は、背中の曲がったおばあさんがステップを降りるときに手を添えていました。バランス的にその必要性は微妙なところだったけど、お互いに微笑んで挨拶をしてお別れしていました。その背後には、おばあさんがゆっくり進んでいるのを「気配を消して待つ」やさしい人がたくさんいて、すごくおだやかな空間でした。
この女性はそこで「攻めの親切」をしていて、言うなれば色鮮やかな親切です。
彼女の行動がなかったら、「気配を消して待つ」やさしい人たちの存在がやさしく感じられない、別の景色に見えていたかもしれません。



話は変わります。
あるときヨガ仲間から「ついおせっかいを焼いてしまう性格」の相談を受けました。これにはきっかけがありました。
わたしがナビゲーションをするヨガのクラスで、ある生徒さんが、ひとつのアーサナの後に寝オチしたまま30分ほど動かず、クラスの最後のほうで目を覚ましました。気にならなかったので特に声もかけず、起きた時に「あら。クラス中に目が覚めましたね」と。ほったらかしでした。



帰りにそのクラスに参加していた友人と、こんな話をしました。


友 人:今日、あの人のこと、なにも言わないでほっといたよね。わたし、ああいうとき、つい「大丈夫ですか?」なんて声かけちゃうのよねぇ。
うちこ:うん、かけてもいいんじゃないの?
友 人:いや、それはおせっかいなのよ。わたしは、ついおせっかいを焼いてしまうのよ。これがいやなのよ〜。



たぶんこの友人の悩みは「守りの親切」。「ほうっておくことで不親切な人だと思われるのが嫌なので声をかける」ということをして、それは相手も求めていないから、やっぱりなにか返事をさせられてしているような返事が返ってきて、「やっぱりスベった」と、そういう感じになる。
この「守りの親切」は鮮やかではないけれど、やさしいパステルカラーの親切。



「大丈夫ですか?」 って、フレーズが便利なんですね。色に例えるなら、ベージュ。
「大丈夫ですか?」のあとに、「このカバン、駅前まで持ちましょうか?」とか、「お水を持ってきましょうか?」のように、行為の具体的な予告として言語化できることがないものは、攻めか守りに偏らざるをえない。



誰かの動きがスローであったりイレギュラーに見えたとき、とりあえず気配を消して待ってみる。白や無色透明の親切。「どうでしょう、この状況に居合わせたわたしの、この行動」という存在提起をせず、アルカイック・スマイル。



これって意外と難しい。つい「守りの親切」をしたくなる気持ちもよくわかる。
昨今は特に「ほったらかしにされた」と怒る人も多いので、「守りの親切」は方向性としては賢い行為なのだと思う。守るべきところが守れるから。
「攻めの親切」は、どうだろう。これは、時として「アピール」と言われてしまったりする。昨今はそれを言わせておく「スルー力」も同時に必要になる。



わたしのヨガ仲間の悩みは、厳密には「おせっかいを焼いてしまうこと」ではない。
たぶん、彼女は以下が必要であることに気づいている。

  • 沈黙耐性
  • その後のリアクションにとらわれない不動心
  • なぜか逆に恨まれることになったとしても、いたしかたなしと思う捨心

叶恭子スワミの本に、こんな言葉があった。

<7月のレッスン 「思いやり」について より>
最大の親切

何もしない。求めない。協力しない。
一見、最大に不親切であるような姿勢が、
そのじつ、他人に対して最大の親切に
なりうる場合があると知りましょう。

「黙って待つ」というのは、おなじ自然生命体として共存していることを認めているからできること。
その時間中にどれだけ存在を消せるかってのがむずかしいところだけど、こういうバランスを追いかけることは、とても環境によさそうだ。