うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

よい結果を正確に刻むこと(vasanaの使い方)

これはある単語の説明の訳です。

のちの行動に影響するほど心に刻まれた、過去の行動(の結果)の印象


この文章から、「トラウマ」という単語を連想する人が多いのではないかと思うのですが、トラウマというのは広辞苑でひくとギリシア語の「精神的外傷」。今日は外傷ではなく「はたらき」の話です。



冒頭の訳は「vasana」というサンスクリット語の訳で、いい印象も悪い印象も含めたはたらきのこと。ヨーガや仏教は、学びが深まるとびっくりするくらい心のはたらきの単語を知ることになります。



そんななか、わたしはこの「vasana」のはたらきがイチオシなんですね。シャクティやシッディに比べたら地味だし、脚光を浴びる機会はほとんどない単語です。このはたらきをマイナスの意味で使う傾向が強いと、たとえば「成功イメージを描く」とか「成功体験を糧にする」とか、そういうメソッドを差し出されたところで、ピンとこないまま「そうだよね(=そうだろうねぇ)」という感覚の理解で終わってしまう。



わたしはこれ、ヨーガでトレーニングできる題材として、とてもいいなと思っています。
たとえばウルドヴァ・ダヌラ・アーサナ(体育でやるブリッジのことですわ)がいつもよりも上手にできたとき、「わーい」で済ませちゃもったいないわけです。

  • 腕の力がついたことを認識したのか
  • 脚の付け根の力がついたことを認識したのか
  • 背骨の弾力がよく働いたのか
  • 強くて硬いだけだった腹筋に弾力がついて、伸びを邪魔しないしなやかさを得たのか
  • 心が慣れて喉がのびやかに開いて、違う景色が見えたのか
  • 手と足が近づいて円に近くなったのか

などなど。



「どこがどう成功したのか」
些細なことでも、こんなふうに分解する癖がつくと、日常でも「ああ楽しかった」ではなく、「何によって心がどのように喜んだのか」を認識する練習になります。
「ああ楽しかった」「いやまてよ、楽しかったか?」「そうではないな。やらなければいけないことを棚上げするきっかけをもらったんだ」という展開になることもあるでしょうし、誰かに感謝の気持ちを具体的に抱くことになるかもしれません。
いずれにしても、「楽しかったことは自分へ向けて、自分の心の機能へ丁寧に刻んだ方がいい」ということです。心はその器を持っている(とインド人はいうとる)からね。
ひとつの楽しかったこと、嬉しかったことを、余計な味付けをせず、ひとりで深く味わえるように。心がボケないように。
最近そんなことを思います。


(参考補記:冒頭の訳の元になった英文は Dr. M. L. Ghatore 氏編集のサンスクリット語 natha philosophy 用語訳から引用しました)