うちこのヨガ日記

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キリスト教とイスラム教 ―どう違うか50のQ&A― ひろさちや 著

ふらりと立ち寄った古本屋さんで買ったのですが、すばらしい内容。仏教のことについて書いている人というイメージのある著者さんだったのですが、ご本人も「あとがき」で触れています。その素地がありつつ、Q&A形式で説明が展開される。
たとえば地獄の観念は、仏教素地の強い(怖い絵をすぐにイメージできる)わたしたちにわかりやすいストーリーで語られています。イスラームの説明で難しい「イマーム」の存在の語り方もみごと。図解や統計などの情報満載で、この一冊でいろいろなことが理解できます。
感覚的にすごく共感するのは、下の引用にも登場しますが

わたしの見るところ、日本人はヒステリックに人を裁こうとする傾向があります。日本人に真の宗教がないからでしょうか……。

という感覚。多くの人が感じるところかと思います。



ところどころにあるメッセージがすばらしいのですが、それは、「わたしがなぜいまイスラームを学んでいるのか」と同じことで、いくつか例をあげると

わたしたち日本人は、キリスト教徒からなされるイスラム教徒への非難のことばばかり聞かされてきました。「コーランか、剣か」といったことばもその一つです。そして、それだけが真実であるかのように考えてきました。これは危険な態度だと思います。(Q8より引用)



 わたしたちは、この西暦を世界の標準的な暦だと思っていますが、じつはこれはキリスト教徒の私的な暦なのです。(Q44より引用)



ちょっと考えてみるとわかるのですが、その「あたりまえ」の多くが西洋=キリスト教の「あたりまえ」なのです。
 いえ、わたしは、日本人がキリスト教の「あたりまえ」を受け容れて悪い、といっているのではありません。受け容れてもいいのですが、しかし日本人のように、それだけを絶対としてしまうのは賛成できません。わたしは日本人に、二つのことを知っておいてほしいと思います。
 一つは……われわれが「あたりまえ」と思っていることの多くが、たんに西洋=キリスト教だけが採用している「あたりまえ」でしかないこと。
 もう一つは……結局は同じことになりますが、世界にはもっと別の「あたりまえ」があること。
 これは大事なことです。ことに、自分の「あたりまえ」をすぐに他人に強制しようとする傾向の強い日本人が、これからの国際化の時代に生きて行くためには、この二つをしっかりと学んでおく必要があります。(「あとがき」より)

わたしもこの歳になって学び始めたのですが、その文化を学ぶと、イスラームのことをあまり知らない日本人向けにバイアスのかかった語調になっているニュースがとても多いことに気づきます。洗脳される側にもカモ気質があるというか、そんなことを日々思います。


この本ではイスラームキリスト教、そして両者の親的存在のユダヤ教について、50項目のQ&Aとともに学ぶことができます。
そしてその回答文章が、とてもやわらかくてわかりやすい。目からウロコな話がドバドバ出てきます。
いくつか端的なメモを感想つきで共有すると

 ⇒感想:親鸞ぽい。

  • イスラームを「回教」といったりするけれど、これは西域地方に住んでいたイスラム教徒にトルコ系ウイグル族が多く、彼らが中国人によって「回鶻」と呼ばれていたことによる呼称(Q4より)

 ⇒感想:あんまり使わない方がよい由来。

  • religion はラテン語の religio に由来し、religio はラテン語の動詞 relogo からつくられた語。「再び結びつける」という意味があって、本来はキリスト教の用語。「神と人間とを再び結びつける」ということ(Q3より)

 ⇒感想:再び、を抜けば yoga と一緒なんだなぁ。

  • ルターの宗教改革でやっと聖書が他国語に訳されるようになった(Q10より)

 ⇒感想:わたしがいかに中学高校でちゃんと勉強してこなかったかの証拠。

  • 砂漠においては太陽は人間の敵で、月が人間の仲間。日本人は太陽を崇拝するが、砂漠の住民は太陽を忌まわしいものと思っていて、月に親しみを感じる。(Q26より)

 ⇒感想:国旗のモチーフやイスラームの暦(太陰暦)に納得。

  • 「アーメン」とは、「まことに」「たしかに」といった意味(Q34より)

 ⇒感想:omみたいな聖音扱いのもの(はっきりした意味はないもの)だと思ってた。


この本を読んで「知ってよかった」と思うことばかりだったのですが、より抜きでいくつか紹介します。

<Q5より>
マホメットの宣教は、ごく一部の熱心な信者を除いて、メッカの住民たちの嘲笑と反感を買い、それはやがてマホメットの教えを信ずる人々に対する迫害となります。おりしもヤスリブ(のちのメディナ)の町から、マホメットを調停者として迎えたいとの誘いがかかり、彼はメディナへの移住を決意します。当時、メディナの町にはユダヤ教徒とアラブ人の二つの部族が住んでいて、彼らの間で永年にわたる対立、抗争がありました。マホメットは、こうした部族対立の調停者として、メディナに行ったのです。
 六二二年九月二十四日、マホメットは七十余名の信徒とともに、メッカを出てメディナに移住しました。これをヒジュラ(聖遷)といい、この年をもってイスラム暦の元年とします。

歴史として知ってはいたものの、こういう文章で説明されるのがすごくよかった。この本は語り口がとてもよい。

Q10より>
(聖書の日本語訳はキリシタン禁制時代のギュツラフ(1803〜51/リンクはWikipedia)によってなされたという話にある訳の冒頭)


ハジマリ二
カシコイモノゴザル、
コノカシコイモノ
ゴクラクトモニゴザル、
コノカシコイモノワゴクラク

末尾に「ニンニン」と思わずつけたくなる訳。こうなるとだいぶキリスト教も身近に感じます。詳しいことをwikipediaの「日本語訳聖書」項目「プロテスタントによる聖書和訳」のところで読むことができます。

<Q12より>
 キリスト教神学でいちばんむずかしいのは、イエス・キリストの神性と人性のバランスなんですね。神性を強調しすぎてもいけないし、人性を強調して「人間であるイエス」にしてしまってもいけないのです。頭が痛くなります。

こういう語調が、全般のわかりやすさになっています。

<Q17より>
イスラム教においては、
── もてなし(ディヤーファ)
 が大事な人倫の一つとされています。見知らぬ者や旅行者を「客」として迎え、敬意をもって「もてなす」のが、イスラム教徒としての神聖な宗教的義務とされているのです。また、「もてなし」を受けたものは、喜んでこれに応じなければならない。「もてなし」を拒んだり、少ししか食べなかったりするのは、相手を侮辱したことになるのです。イスラム教においては、このように現実的な形で「隣人愛」が説かれています。キリスト教と表現がちがっているだけで、根本のところは同じことを説いているのではないでしょうか……。

これはヒンドゥー教でも同じですね。

<Q18より>
アメリカの裁判制度 ── 被告が自分で有罪の申し立てをすれば陪審裁判にかからないですみ、検察側から犯罪事実として持ち出されるものを少なくしてもらい、刑罰を軽減してもらえる特典がある。この比率が非常に高い。という説明のあと)
 こういう裁判についての考え方には、明らかに、真の裁きは神にまかせておけばよい、という思想が反映しています。われわれがする裁判の目的は、たんに社会の秩序を保つためであると考えられているのです。日本人の考え方と根本的にちがっていますね。わたしの見るところ、日本人はヒステリックに人を裁こうとする傾向があります。日本人に真の宗教がないからでしょうか……。

日本に住むインド人から「なんで日本はこんなに裁判に時間をかけるのか。頭がおかしかったことにして時間がかかるものが多い」という話をされたことがある。わたしはこういう側面からも、世界の宗教に興味を持つようになりました。
日本人のマインドには、江戸時代の晒し文化、吊るし上げ文化、お上に裁いてもらう感覚がっつり根付いているのかな。時代劇の影響かな。税金の使い道の歴史かな。

<Q25より>
インドや東南アジアにイスラム教が入って行ったとき、軍事力によって政治権力のトップをイスラム教に改宗させましたが、民衆はイスラム以前の宗教を許されていました。その民衆を少しずつイスラム教徒に改宗させて行ったのは、民衆のあいだで活躍していたスーフィーたちだったのです。

これは歴史の興味深い一面。神に近づくための「修行萌え」なマインドに共感するところがあったのかしら。

<Q37より>
 エルサレムイスラム教の聖地とされたのは、マホメットが自分の宗教(イスラム教)をユダヤ教の伝統をうけついだものと考えていたからです。のちにはマホメットユダヤ教徒と対立しましたが、初期のころはユダヤ教に親近感をもっていました。礼拝の方向(キプラ)
も、六二四年以降はメッカの方角とされましたが、それ以前はエルサレムに向かってなされていました。

コーランを読んでいて面白いのは、「ぼくたちユダヤ教のことが実は好きなのに、気が合うはずなのに、仲良くなれないなぁ」という悲しみの雰囲気。啓示はコテンパンな語調のものが多いけど、それにしても何度も出てきて「好きだったけど、おつきあいできなかった人」に焦がれるような「フられてないもん!」という雰囲気がある。「偶像崇拝をする者ども」は「あれは駄目だもん。しらねー」で一蹴されて、仏教なんて眼中になかったんじゃないかという風情。ここはちょっとジェラシー。

<Q41より>
 イスラム社会では、子どもはかなり早くから厳しくしつけられます。そのしつけは、イスラム教徒としての規律を教えることであり、そのために子どもは四歳になれば『コーラン』を暗唱させられ、礼拝や断食の修行をさせられます。また、家事労働はもちろん、父親の仕事の手伝いを早くからやらされます。経済観念も教え込まれ、十四、十五歳で父親の経営する店で、いっぱしの商人として振る舞う子どもも珍しくありません。

(中略)

イスラム諸国の子どもたちは、わりと早熟です。独立心をもっているからでしょう。日本のモラトリアム若者と、まるで違っています。

コタキナバルでも、小さい車掌さんや小さい店番さんにたくさん出会いました。やる気が微妙な大人よりも勘定が早くてしっかりしていて、子どものほうにぜひ頼みたいサービスもあった。モスクで教育の現場にも出くわしました。インドやスリランカでも感じましたが、「英語を覚えたら、とにかく使いたい! お手伝いして実利に変えてみたい!」という意欲が感じられます。大学に入るための勉強ではなく、明日生きることに使うための勉強をしている感じがする。

<Q49より>
 イスラム教の労働観ですが、中東のイスラム教国のほとんどが、かつて遊牧民族であったことと無関係ではありません。
遊牧民族のあいだには、
「強い者が遊牧し、弱い者が耕す」
 といった格言があります。遊牧民族は農耕を軽蔑していたのです。したがって、もともと遊牧民族の宗教であったイスラム教には、「勤勉」を美徳とする思想は希薄でありました。
 なぜなら、農業にあってこそ、勤勉は美徳となります。農業では、働けば働くほど、原則として収入が増えますから。
しかし、遊牧民族の場合、いくらあくせく働いても羊やらくだの出産回数がふえはしませんし、羊やらくだが二倍も三倍も草を食ってくれるわけでもありません。遊牧民族には、「勤勉」や「努力」が美徳になりようもなかったという面があります。

価値観と風土との関係において、四季のある日本はすごく特徴的。はかないものを嘆くのではなく、愛でる。日本人に宗教観がないと言われるのは、わたしはこういう背景を思うと、「まあ、そうなるんじゃないか」と思ったりします。期間限定商品とか大好きだしね。


「積極性があって」「自立していて」「許容のキャパが広くて」「はかなさにも強くて」「奥ゆかしさもある」、となったらけっこうバランスよく生きていけそう。
うしろの二つは仏教から、はじめの三つはキリスト教イスラームから。そんな感じでいろいろな文化を知ることで学びが深まる気がします。
ちなみに上に入れようと思って別格に置いたのが「主体性」。これが、すべての宗教の根底にあるものかもしれません。「無宗教です」というのは、どうもそれがありませんと言っちゃっているような、実際そうであるような。宗教を横断で学ぶと、よくこういうことを考えることになります。
この本はそういうきっかけを「楽しいトピック」でどんどん投げかけて、やさしく分かりやすい回答で折り返される。気持ちよく楽しくイッキ読みしてしまいました。世界の宗教の構成データも載っているので、海外旅行へ行く前に読む一冊としてもおすすめです。

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