うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

インド人(後半) ギーターンジャリ・スーザン コラナド 著

昨日紹介した本の、今日は後半。
「インド流コミュニケーション」「乗り物体験紀行」「インド暮らしの極意」「食は人をつなぐ」「もっと楽しいインド」「ビジネスの第一歩」の後のなかから、メモしたかった箇所をご紹介します。
わたしは社交的ではないけれど、「陰気さ、依存、重さ、執着の強度」以外の理由では人のことを「嫌だ」と思うことがあまりないです。特にインド人のような異常に精神的なボディ・ゾーンの近いコミュニケーションには、もともとあまり驚かない性格。むしろ、「いいなぁ。こんなふうに無邪気に知りたいことをずけずけ聞けて」と思います。
そんな遠慮がちなわたくしでも、職場の人には「聞きにくいことを、ものすごくまっすぐに質問する」「白黒はっきり知りたいことに対して、容赦ない」などと言われたりします。逆にヨガの場面では「答えは自分でみつけるものだ」と思っているので、ほとんど質問などをすることがない。


これは経験からの感覚ですが、インドの人は「知りたい」「答えを聞いた」「答えがわかった」という単純なことではないのが「コミュニケーション」で、「答えた内容」が本当でも嘘でも面白くされていても、「そういう相互理解のあらすじをつくった」という同じ土俵を整えるような、そんな感覚でコミュケーションをとっているような気がして、もともとその楽しみ方が、本来の自分に合っていたのではないかな、と思います。
だからわざわざマイナスのことを言う人が少ない。根本的には、「一緒に楽しみましょう」というスタンスの点で、インド人のほうが「とりあえず謙遜しとけ」という日本人よりも、ものすごく謙虚だと思います。


ではではそんな「インド流コミュニケーション」からはじまる後半、引用紹介します。

<155ページ なんて無礼だと怒る前に より>
 インド人があなたに、「あなたのパスポートをよこしなさい」とか、「そこに一列に並びなさい」というとき、ふつう丁寧な言葉は使わないが、それをいった男性でも女性でも別に無礼な物言いをしようというつもりは毛頭ない。ほとんどのインドの言語にはプリーズ(どうぞ)にあたる特別な単語がないので、丁寧な言い方で話しかけるべきときも単刀直入に動詞を使ってしまうのである。これは英語の翻訳のときにも忘れられる。
(中略)
贈り物を贈ることにおいても、物を与えるという行為そのものによってその人は報われるので、贈る人はもらう人よりも徳を積むことになる。もしどうしてもお礼の気持ちを表したいのなら、「ありがとう」だけでは不十分である。インド人は感謝の気持ちを「長生きできますように!」(ディールグ・アーユ・バヴァ)という言い回しで表現する。

インドの人と知り合ったときの会話で、「私は仏教のこういうところが素晴らしいと思います」とか「勤勉でまじめな国の人ですね」とサラリといわれて、無礼と言うよりは、「ああこういう尊敬的なカジュアル表現」というのが日本人にはない感覚だなぁと思いました。
日本も、「How are you?」的な感覚がないですよね。受け手側からすると、興味なさそうな感じの無礼さがあるのではないかなぁと思います。


<163ページ 名刺で自己紹介 より>
小さな長方形の紙にはさまざまな情報が印刷されている。たとえば、だれかの名刺に「学士(中退)」と書いてあるのを見ても、ぎょっとしたり、説明を求めたりしないように注意してほしい。おそらくその人は、学士号のための試験を受けて落第したのかもしれないが、それも大切なひとつの経歴ととらえて記載しているのだから。

いやほんと、インド人の名刺は面白くて、数学の先生の名刺に「M.Sc数学だけですから!(Only For M.Sc. Mathematics) 」って書いてある横に、「もうすぐBatchのクラスもはじめます」とか書いてある。Batchは説明しずらいけど、たぶんなにかの数学的な処理の仕方(複数の似ているものを1つのグループとして処理する)の意味だと思う。


<168ページ イエスを表わす頭のくねくね より>
混乱のもとは単純なジェスチャーにある。インド人に特徴的な、頭を曖昧にまわすしぐさは「はい」を意味し、それが西洋人の目には「いいえ」に映るのだ。インド人は首に余分な骨があるかのように、頭をくねくねと前後左右、上下に動かすことができる。その動きは、まるでボールベアリングの上におかれているかのようにスムーズだ。
 明確に首を横にふるときは「いいえ」を意味し、うなずくときは確たる「はい」を意味している。頭のふり方は多目的に使われ、ときには「オーケー」、「すばらしい!」、または「そう思う」、「たしかに」、「もちろん」などの意味を含んでいる。

これも、独特なところ。わたしもはじめ、インドでのヨガ修行でお世話になった親方の「うん、いいよ」を最初「なにー?」って思ってました。「もちろんだよ(Sure)」って言うときも、小首をかしげる


<176ページ 身体空間のギャップ より>
彼らは容赦なく個人的な質問を投げかけてくる。あまりにありきたりの質問から始められる。「名前は?」、それが国籍を尋ねる質問へ進み、未婚か既婚か、職業、給料、家族、宗教へと進んでいく。軽く受け流し、適度に距離を保つことなど不可能に近い。すべてを受けとめ、ユーモアのセンスをもって質問に答え、その場の雰囲気に順応するしかない。
 人なつこく好奇心旺盛なインド人は、インド流に、相手の近くに座り、多くの質問をすることが独特な異邦人を礼儀正しくもてなす方法だと信じている。

これがね、本当にびっくりするのね最初は。


<203ページ 家の選択肢 インド式 より>
 高級住宅街に暮らす何分の一かの値段で、ふつうのミドルクラスの人々が生活する地区に暮らすことも可能だ。もちろん、その場合は便利な暮らしという考えはあきらめなければならない。インド人は、一日に数時間しか水道に水が供給されないことに慣れている。しかし、あなたにとっては、水の供給時間に合わせて生活を組み立てるというのは、そう簡単なことではないだろう。早朝に起きて大きなバケツに水を満たし、鍋や皿を洗い、貯水タンクの水の量しだいで風呂に入ったりする心の準備ができるかどうか。

デリーにホームステイしたときの水の使い方がそうで、いつもパタジ(お父さん)が入浴分のお水を汲んでおいてくれていた。それを、大事に、大事に、ちょろちょろと使う。


226ページ できて当然と思わないこと より>
よく耳にする不満は「彼ら(使用人)は私の望む水準の仕事ができないので、むしろ自分でやったほうが楽だ」というもの。(中略)こう考えてみたらどうだろう。自分自身でやるかわりに、家に仕事をする人が来てくれるのだから、すべてこちらの希望どおりにいくとはかぎらないのだと。

そう、このとらえかたが大切。労働の対価はお金なのだけど、労働からもたらされる人間関係や学びは、別の施しなんです。


<232ページ 値段交渉ゲームの秘訣 より>
言い値のまま払ってしまうと、全体のプロセスを短絡させ、買い手は過剰に支払い、店の主人は不機嫌になる。もし買い手がはじめのばかげた言い値をそのまま支払ったとしよう。売り手は喜ぶどころか、だまされたと思うにちぎない。もっとばかげた値段であったとしても、その買い手はためらうことなく支払っていたかもしれないからである。

そう、値切られてるのに楽しそう。みたいなコミュニケーションがある。(参考日記:シロダーラ初体験 in リシケシ


<238ページ 身体と心のヘルスケア より>
 作家ニラド・チャウドリーは、インドを酷評した本『サールシ(キルケ)女神の大陸』のなかでこういっている、「インド人を運命論者にしているのはその気候である。気候はインド人から希望を奪い、彼らを豚に変えている。あたかもギリシア神話の女神サールシが、彼女の手に落ちた者を豚に変えてしまったように」。これはある意味では当たっている。暑さと雨は、人間の暮らしと密接に関わっているものだからだ。

風土と宗教の関係は、ずっと興味があるところ。(参考日記:日本の「至宝」について、考えてみた


<258ページ 即席の友達づくり より>
 インド人にとって、外国人を招待することは感激的な出来事のようである。知り合ってわずかの人や、まったく見ず知らずの人でも、インド人は自分の息子の結婚式に招いたり、家に泊める。

わたしのホームステイのきっかけは、ネットで知り合ったラフルとのインスタントメッセージのやりとりで、おいでおいでと言われて、「母も行きたいって言ってるんだけど、いい?」「もちろんだよ」ってことで、一緒に行った。


<272ページ パーティ主催者の心得 より>
アレクサンダー・フラータは、『モンスーンを追って』(Chasing the Monsoon)という本の中で、込み合ったレストランで偶然隣り合った見ず知らずの者たちが、彼をゴアのモンスーン・パーティ(雨の到来を祝う会)に連れていってくれた話をくわしく書いている。そのパーティの主催者のインド人は、まったく見ず知らずの彼を当たり前のように歓迎してくれた。私も見ず知らずの人をパーティに連れていったことあるが、寛容な女主人は私に、「見ず知らずの人ってどういうこと、それはあなたが会ったことがない人のことでしょう」といってくれた。

この話には感動。


<276ページ コラム「空腹を抱えたまま延々とつづくパーティ ── 夕食開始は午後10時、そして食べたらすぐ寝る」 より>
 まず「カクテル・タイム」と称して飲み物(ビール、ウイスキー、ソフトドリンク)が出され、ナッツ類やサモサ(カレーやポテトなどを詰めた揚げ物)をつまみに歓談するが、これが(少なくとも食事をあてにして空腹状態で来た者にとっては)延々とつづく(ように思える)。
 そして「食事の用意ができたので、どうぞ」と主人の声がかかるのは午後10時をまわったころ。
(中略)
 インド人の知人に「そんな遅い時間に食事をして、帰宅したあとはどうしているのか」と尋ねると、「シャワーを浴び、一時間以内には就寝することが多い」と。さぞかし健康にはよくない習慣だと思っていたところ、カロリー摂取量はそれほどでもないインド人に、肥満や心臓病が意外と多いのを知り、やはりそうだろうと納得した。

これも、まさに本当に、ということがありました。(参考日記/末尾にそんなエピソードあり:インドエステでツヤツヤ、モテモテ?
この日記で「イケメンなのにお腹が出ているぅ。なぜ」と女子からプライベートでもリアクションが多かった、リシケシの藤木直人こと本屋のAnkit君もきっとこれが原因なんだろうなぁ。


<277ページ 食品のカースト的序列 より>
 カーストという序列は、食べ物の質の序列にも明確に表れている。カーストは、社会システムだけではなく、生来の質を表現するものなのである。いちばん劣るタマス(翳質)は、低いカーストと関連づけられる。タマスは不活発性、重さ、暗さを表わす。タマス的食べ物とは、アルコールや肉(薫製肉や保存用の肉を含む)、きのこ類などである。ラジャス(激質)はエネルギと力を表わし、武人や商人のカーストと関連づけられている。ラジャス的食べ物とは、赤い肉、辛い香辛料やニンニクやタマネギのように刺激の強い食べ物をさす。サットヴァ(純質)は最高の質である。純粋さ、高揚した精神、明るさを意味し、バラモン階級と関連づけられる。サットヴァ的食べ物とはミルクやヨーグルト、木の実や種、果物、野菜、穀物をさす。

わたしも3つのグナ(サットヴァ、ラジャス、タマス)は意識するけど、そこにカーストの感覚があるとは知らなかった。これは勉強になった。
いや〜、面白いよねインド。ほんと面白い。

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4 やっぱり実際にインドに行くべき