うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

タイを知るための72章(エリア・スタディーズ30)

年末年始の旅行のまとめを書く余力がないまま、半年が過ぎてしまいました。

前回タイへ行ったあとに、あれはなんだったのだろう? という光景について、この本をちまちま読みながら、同時進行で5ヶ月がかりで旅行記を書いていました。

 

今回の旅で気になった要素は、観光をしているとき以外に感じることで、テレビのニュースやドラマで見る様子とか、学生さんや若い人たちの行動、街に貼ってある張り紙の意味がふわっと気になって残っていました。

タイ式」と「マッサージ・ガール」を読むことで、観光大国ならではの状況や出稼ぎについて知りました。

 

チェンマイの旧市街は条例で高層建築が規制されていることは、今日紹介する「タイを知るための72章」で知りました。

この本はコラムで取り上げている題材がおもしろく、やっとタイ独特の日常的な文化を少し感じられたように思います。

テレビを見ていると、どこかの機関や組織、学校にたぶん王族と思われる人が来てなにかの式典をやっている様子がよくニュースで流れていたり、恋愛ドラマのノリがなんか独特だったりして、なんなんだろう、この感じは・・・と思っていました。

1月から2月にかけて行われる国立大学の卒業式では、王族から卒業生一人ひとりに証書が手渡されるため、一族総出のイベントとなる。その際に撮られた写真は応接間に誇らしげに飾られる。

(第25章 変わりゆく大学 より)

 

タイの大学には「ラップ・ノーン」もしくは「ラップ・ノーン・マイ」という、いわゆる古い体質の体育会系でありそうな「かわいがり」みたいな風習がある。

(コラム「ラップ・ノーン」より)

 

今ではすっかりタイ語として定着した「キック」という言葉があり、本来は「友人よりも親密な関係を持つ異性」を表すが、今では、不倫相手、愛人、妾までが《キック》になってしまった観がある。

(コラム「キック」より)

 

なんか独特な何かがあるなぁと思っていたのですが、上記のような話を読むと、ちょっとどういうこと?! と思ったりして。

 

 

インドの文化が入ってきつつも、タイはタイ式なのだと思うことは、ラーマーヤナの存在のほかにもありました。

 ルーシー・ダットンは、日本においてもタイにおいても、よくヨーガと比較されるが、元来の成立経緯に違いがある。ヨーガが基本的には悟りに至る修行実践そのものとされているのに対して、ルーシー・ダットンはそうした修行によって疲弊したからだをそれ以前の状態に戻す技法であるとされているのである。

 ところで、ルーシーという存在は、タイでどのような文化性を帯びているのだろうか。ルーシーという単語は、「隠者、隠士、林間修行者、哲人」という意味を第一義的に持つ。サンスクリット語にも「rsi」という単語がある。インドのルーシーはバラモンの苦行者、梵志、ジャイナ教の尼乾子などを指した単語とされている。

(コラム タイ伝統の健康体操「ルーシー・ダットン」 より)

寺院で行われているマッサージも、瞑想で疲れた身体をほぐすなんて、ヨーガと逆の順番なのがおもしろいし、ルーシー・ダットンは、呼吸もヨーガと逆で、伸ばすときに吸いますね。

 

わたしは海外旅行は同じ国に3回くらい行くとやっと慣れてくるので、初回はバンコクとアユタヤくらいの近県、2回目は東北部、3回目で北部と第二都市を訪れることで、やっと少し知ることができてきたように思います。

いくつかの都市間の文化ギャップを知ると少しずつ見えてきますが、どんなに都会でも田舎でも、スーパーで食材を買うよりも市場で買う文化が根強いのがタイの魅力。

以前からこの感じがすごく好きで、わたしはここ数年在宅で仕事をできるようになったこともあり、野菜と果物は八百屋で買うようになっています。

自分が昔ながらの暮らしをしたい性分が多々あることに気づかせてくれたのも、植物をわしゃわしゃ家に置くようになったのも、タイ旅行の影響です。