うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

“身内だから” という感情や ”ファミリー” という響きのこと

少し前のことになるが、友人に言ってもしょうがないことを言ってしまった。

 

 

 

 「それは当事者ではないわたしから見たら暴力だけど、なんで関わることをやめないの?」

 

 

 

愚問だとわかりながら口にしてしまった。

異性の友人からそれは性暴力ではないかと思うことをされた女友達の話を聞いて、そう尋ねずにいられなくなってしまった。

わたしの問いに、友人はこう答えた。

 

 

 

 「身内だから」かなぁ。

 

 

 

わからないけど、なんかわかる。身内と感じる関係性は不思議だ。

これと似たような似ていない話で、心が苦しいと話していた別の友人のことを思い出した。

コロナがものすごく蔓延していた頃のことだった。

友人がかつてインドを旅していた時にホームステイのような形で同じ建物に住んでいた家の人から、「ハロー。元気?」なんて久しぶりに連絡が来るようになって、話しているうちにお金を送ってくれと言われて「やっぱりか」と思ったのだけど、そのときに「君はファミリーだから」というフレーズに心の奥が反応していて、反応した自分を見たことでさらに悲しく、つらくなったと。

 

 

 

自分の地盤がぐらついている部分の負荷分散させるために、心の中で思い出を方便にする。

これをしていない人なんているだろうか。

 

 

 

人権問題を外部から裁くことの難しさには、これが大きく中心にある。

だからわたしは、冒頭のような友人の話を聞いたときに「なんで関わることをやめないの?」と発言してしまったことを、51%後悔する

49%は、よくある正義感がはたらく。この正義感は自分のオリジナルではなく、外部から借りてきた「よくある正義感」だ。

その差が2%しかないから、友人に謝りたいと思っても、うまく説明ができない。プライドが邪魔をする。

だけどいつか話せるだろうと思っている。

わたしのオリジナルの正義はこっちだ。