うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「言語化できない」には二つの段階があって、だから苦しくなってしまうね

わたしには何人か、ふたりで話すことで頭の整理をしあう人がいます。

どの人も年齢が近く、世代の語彙のようなものが合います。(いつもありがとうございます)

 

 

年齢差のある人では、わたしは母親と会えば話をします。父親と二人で住んでいた頃は、父親と話せた日もありました。それぞれを、それぞれの角度で尊敬しています。

父と会話が成り立ったのは酩酊が少ない時期に限られていたけれど、お互い読み終えた本を交換することもあって、同じ本を読んだ後でその話をしたこともありました。

わたしが貸した『日本人とユダヤ人』(イザヤ・ベンダサン著)を読んで感想を話してくれた時には、この人はシラフだと読解力が高いんだなと、その病の苦しみの構造を垣間見た気がしました。

 

 

両親はわたしが20代の頃に離婚していて、父の頭の良さは母も認めており、父からは、母を大切にしなさいと言われてきました。それぞれ大人だから話す話題は選ぶし、各自が墓場へ持っていく題材を抱えながら、各自のやり方で生きている。そういう状況と解釈しています。

それぞれがそれぞれに苦しんできた他人同士です。血は繋がっていても、他人の頭の中を書き換えることはできません。

 

 

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わたしは何年もここに旅行記を書いています。

母と海外旅行をしたことをこのブログに書くと、ヨガでお会いした人から「なんでそれが可能なのか」とよく訊かれます。「うちは無理〜」と理由を話しながら顔では笑っている人も、みなさん一瞬、苦しそうにされます。

他人の頭の中を書き換えることはできない前提で、それでも仲良くしたいという気持ちに素直になる。この両立がむずかしい関係性の中で生きている人のほうが実は多いんじゃないか。

そのくらい、世間で親子関係に悩んでいる人は多い。これがわたしの実感です。

 

 

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わたしは自分が苦しんでいることを、なかなか人に話すことができません。友人に話せる状態までいくまでにも、数日かかります。

そのくらい、言語化というのはむずかしいものと思っています。

毎日長文のブログを書いているじゃないかと思う人は、「言語化」と「文章化」を一緒くたにしています。文章にするのは修練で速くできても、それと言語化は別のこと。

文章化はこれからAIがどんどん肩代わりをしてくれますが、言語化は本人にしかできません。

 

 

言語化できない」をブレイクダウンすると、わたしが思うに、二つの段階があります。

 

 

 (やっとここからが本題です。前置きが長くてごめんなさいね)

 

 

第一段階:感情と語彙のマッチングが起こらない

ひとつめは、起こっている感情にマッチする言葉が見つからない場合です。

これは語彙力を増やすことがひとつの解決法ですが、つい疲れない本(=他人に感情、特に怒りを代弁してもらえたと感じる本)を選んでしまいがちなので、大人になってからの語彙力増強には、多少のチャレンジが必要です。

 

子供が癇癪を起こす年齢の頃(2歳頃~)は、語彙がめちゃくちゃ少ないのに、感情や意識が発達している状態だと本で読みました。(参考

この説明を読んだ時に、頭の中には確実に10色あるのに3色のクレヨンしか持たされていないような、そんな苦しみなのかな……と想像しました。

 

これの規模が違うバージョンが、大人の頭の中でも起こっています。

頭の中には1000色あるのに、48色の色鉛筆しかない。これじゃない、それじゃない、そうじゃない……を繰り返す。

48色もあれば大富豪の家の子じゃないかという考え方をする人がいるのがまた厄介で、そういう人が「まずは話してみて」と言ってきます。わたしはこれは、あまりにも雑だと思っています。

 

 

わたしは「そうじゃない!」と誰かからイラつきの感情を向けられたときには、「いまこの人は、頭の中の色数が自分よりも多い」と捉えます。怒られっぱなしでいるしかないこともある。

この怒りを、世間では “こだわり” と言ったりするんじゃないかと思います。

形にできないこだわりの種がたくさん発芽しまくっている脳内はしんどい。町や公園で見かける小さな子の癇癪を見ていても、そう感じます。

 

 

第二段階:ラッピングのしかたがわからない

これは、相手に差し出す前にどんな箱に入れたほうがいいのか、どういう包装紙に包めばいいのか、緩衝材はどれを入れたらいいのか・・・。と、選択を続ける思考。

 

他人に伝えたときに回りくどいと言われるのは、過剰包装と似ています。かといって、むき出しがまずい場面で誰も指摘してくれません。気づいたら孤立しています。

それが現代の、やさしい社会のコミュニケーションの現実。

 

 

語彙を増やすことで先に書いた第一段階をクリアしたあと、この第二段階が待っています。相手がいて、身体も使います。

わたしが読書会で宿題質問の形式をとるのはこの第二段階の負担を軽くするためで、「この箱に入りそうなものは、あなたの頭の倉庫にありますか?」というのをやっています。

箱を先に決めてしまうことで第一段階にある感情探しにリソースを配分できないかと考えて、そうしています。(種明かし)

 

 

世間にビジネスマナーや話し方のノウハウは溢れているけれど、たとえ失敗して包装紙がシワになっても、それでも自分の手でラッピングをしようとする心意気みたいなものは、外部からは得られません。

内発的な「もてなす気持ち」に似たものが必要になります。

昨今カタカナで表される “リスペクト” が、これに近いものじゃないかと思います。

 

 

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イライラとかモヤモヤのようなオノマトペや、げんなりやスッキリなどの心の擬態語は、この第一段階と第二段階をうまく包含して便利なものです。だけどそれだけでは、自分の心はつかめない。

これが、もどかしいんですよね。しんどいよね。

 

 

自分の感情とマッチする言葉を探すのは、イライラする作業。

表現をラッピングするのは、めんどくさい作業。

だから苦しい。

言語化と文章化は違う。

タフネスが要るのよね。