うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ヨーガとサーンキヤの思想―インド六派哲学 中村元選集 決定版

まとまった時間がないと読めないボリュームだったので、ゴールデンウィーク期間を使って読みました。
中村元氏はアメリカでも国際的な仏教学の権威として紹介されている方だそうです。いままで読んだ本の中の注釈や引用で何度も刷り込まれていたお名前だったのですが、ものすごい研究量です。
そして何より、訳のスタイルが素敵すぎます。Wikiの解説に、

「生きる指針を提示するのも学者の仕事」が持論で、訳書に極力やさしい言葉を使うことでも知られた。その最も端的な例として、ニルバーナを「涅槃」と訳さず「安らぎ」と訳したことがあげられる。訳注において「ここでいうニルヴァーナは後代の教義学者たちの言うようなうるさいものではなくて、心の安らぎ、心の平和によって得られる楽しい境地というほどの意味であろう。」としている。

というエピソードが書かれていますが、この本の中でもヨーガとヨガの表記に同じような言及がされていて、とても素敵です。


568ページにわたる学術本で、第一編「ヨーガ」、第二編「サーンキヤ 二元論の哲学」に分かれています。
日々ヨガを楽しみながら気軽読む、というタイプの本ではないと思うので、わたしの目線でのメモを紹介します。
参考:佐保田鶴治博士の「ヨーガ・スートラ」関連訳本については、過去の日記に書いています。「ヨーガ根本教典」、「続・ヨーガ根本教典


第一編「ヨーガ」から

<10ページ 第1章 ヨーガ修行の発端 より>
諸種のヨーガの特色を、佐保田鶴治博士は現代的な用語をもって、次のように述べておられる。荒っぽいが簡にして要を得ており、便利であるから、ここに紹介しておく(若干わたくし<著者>の加筆あり)
 (1)ラージャ・ヨーガ  心理的
 (2)ジニャーナ・ヨーガ(知慧のヨーガ)  哲学的
 (3)カルマ・ヨーガ(行為のヨーガ)  倫理的
 (4)バクティ・ヨーガ(信愛のヨーガ)  宗教的
 (5)ハタ・ヨーガ  生理的
 (6)マントラ・ヨーガ  呪法的
 (7)ラヤ・ヨーガ(クンダリニー・ヨーガ)  心霊的
 (8)ヴィヤーヤーマ・ヨーガ  体育的
以上のほかに今世紀になってから特に国際的に強調されているものに、
 (9)総合ヨーガ(Integral Yoga)
がある。

この、○○的という分類の住み分け定義が、理解を助けるのに最適な日本語選択だなと思います。

<178ページ 第5章 『ヨーガ・スートラ』第1章翻訳 より>
(章の結びに)
以上、めでたきパタンジャリの著した『ヨーガ・スートラ』に対して、めでたきヴェーダ・ヴィヤーサのつくった『註解書』における、第一「三昧」章おわる。
<これに関連して、279ページ 第7章『ヨーガ・スートラ註解書説明』の諸問題 より>
従来『ヨーガ・スートラ』を解読するためには、ヴィヤーサの『註解書』およびそれに対するヴァーチャスパティミシラの註釈『タットヴァ・ヴァイシャーラディー』によって解するのが常道とされていた。しかし、もしもシャンカラの註解書が発見されたとなると、ヴァーチャスパティミシラの註釈書よりも古いことになるから、その意義は重要である。

これらは、いつか読むことがあるかもしれないので、メモ。

<194ページ 第6章 『ヨーガ・スートラ』第2−4章 より>
われわれの経験する一切の事柄が苦であるように運命づけられているのは、ヨーガ学派によれば、その原因は、見る主体であるプルシャと見られるものである根本原質とが結合しているからである。そうして、このような結合を成立させている究極の原因は無明なのである。

この一節はとても印象的で、「なるほどなぁ」と。頑張れば楽しいはずだったり、決して不運ではない状況で不満ばかり漏らす人に読んで欲しい一説です。無明とは、辞書にはこう記載があります。
《(梵)avidyの訳》仏語。邪見・俗念に妨げられて真理を悟ることができない無知。最も根本的な煩悩で、十二因縁の第1、三惑の一とされる。

<210ページ 第6章 『ヨーガ・スートラ』第2−4章 より>
ヒンドゥーの行者が主宰神を念ずることに対し)仏教の伝統に育っている東アジアの人々としては、人間以上のなにか尊いものはみな信じるけれども、宇宙を支配する唯一の神というものを信じるかどうか、これは問題である。そのわけは、人々の内には、悪いことをしてでも成功して、よい生活をしている人がいる。そうかというと反対に、正しい生活をしているのに不遇な目に遇う人もいる。これをどう説明するか、神の御心によってということにしても、そうゆう神はあまりに惨い、無慈悲でないかと思われる。
このことについては仏教の思想家は徹底していると思う。仏教の思想家は、宇宙を造った神というものは認めない。われわれはいろいろな生活をしているわけであるが、これは因縁のいたすところである。(中略)本当に尊ばねばならないのは、ひとりひとりの中にある仏性、仏の心、仏心である。この点で『ヨーガ・スートラ』の思想とは相違しているといわざるをえない。

こうゆう解説を読むといつも、日本人としてヨガに出会えてよかったな、と思います。

<220ページ 第6章 『ヨーガ・スートラ』第2−4章 より>
密教では、この吉祥坐(参考)を蓮華坐、半跏坐を吉祥坐ということがある。禅宗では結跏趺坐を座禅の正しい姿勢であると定める。

今後の参考に、メモ。

<222ページ 第6章 『ヨーガ・スートラ』第2−4章 より>
ハタ・ヨーガで行われているような坐法はそれが確立される以前の時代にもすでに現れていたらしく、後期仏教または真言密教のうちに、丁字坐(pratyalidha「丁字立」ともいう)が言及されている(『金剛頂瑜伽中略出念誦経』一巻)。それは、右脚をまっすぐに立て、左脚を斜めに引いて左脚を屈し、身を前方に曲げて、膝に倚りかかって立っているたちかたである。また蹲踞坐(そんこざ)も言及されているが、それは両脚を並べ立てて、うずくまって臀(しり)が地に着いていない坐り方である。ところが仏教が衰頽した時代になると、ハタ・ヨーガの曲芸のような坐法が大いに発達した。

真言密教におけるアーサナに触れた解説に出会ったのが初めて。これは貴重なメモ。今度、実際にやってみます。

<223ページ 第6章 『ヨーガ・スートラ』第2−4章 の註釈より>
仏教やヨーガの坐法に関することとして、先年、関口真大博士が、私信で次の教示をよこされた。その私信からの抜粋を、請来の研究者の参考のために、ここに記載しよう。
『座禅、結跏趺坐の際の掌の左右の上下の問題でございます。
 (一)天台止観、および禅宗では、左を上、右を下としていますが、
 (二)真言密教では右上、左下にします。(以降略)』

仏像を見るとき用のメモ。

<248ページ 第6章 『ヨーガ・スートラ』第2−4章 より>
【(著者の)論考】
シャンカラは『もしもヨーガ行者が他人の心を対象として見とおすならば、ヨーガ行者の心もまた、他人の汚れに染まって汚れてしまうであろう』と説明している。面白い議論である。

うわぁぁぁ、とおもう考察。

<324ページ 第9章 ヨーガの普遍性 より>
ヨーガでは不思議な神秘力の獲得を説くし、それを実際に修行すると、ある程度までは可能なようであるが、禅ではそうゆうことは邪道であると考える。むしろわれわれが日常飯を食べ茶を飲むというようなありふれた生活に偉大な神秘性があると説く。

→禅とヨーガについて書かれた本を、これまで何冊か読んできました。「ありふれた生活におけるカルマ・ヨーガ」という解釈をこれまで勝手に自分の中で思うことが多かったのですが、それに近いところにあるような気がする記述です。

<341ページ 第9章 ヨーガの普遍性 より>
日本へヨーガを導き入れた最初の人は、わたくしの知るかぎりでは、中村三郎(号、天風。1976-1968年)である。
わたくしは天風に会ったというよりは、見たことが一度だけある。天風は、本郷西片町の通称「からはし」という橋の下の道を下って行って、柳町という電車停留所の近くの、崖の下に大きな邸を構えていた。昭和五(1930)年ころのことであったと思うが、確か健康法に関する講演会が開かれるという広告につられて、虚弱な体質に悩んでいたわたくしは出かけていった。

このほか、「ヨーガに生きる―中村天風とカリアッパ師の歩み」からの引用で、中村天風氏についての話も何度か登場します。

<344ページ 第9章 ヨーガの普遍性(の註釈) より>
‘yoga’の‘yo’は長母音である。したがって多くのインド学者がしているように、わたくしは「ヨーガ」と書く。これに対して、世間一般のヨーガの指導者たちは「ヨガ」と書く。この表記を日本のサンスクリット学者たちは嘲笑しているが、わたくしは、この表記法を目くじら立てて非難する必要もないと思う。そのわけは、日本語の長母音とサンスクリット語の長母音とは必ずしも同一ではないからである。

冒頭に書きましたが、わたしも本当は「ヨーガ日記」にしようかと思いつつも、インターネット的な理由もあって「ヨガ日記」としています。けっこうおヨガの世界でも目くじらたてる人がいるのですが、その行為自体がヨガ的でない気がします。



以下、第二編「サーンキヤ 二元論の哲学 から

<438ページ 第3章 実在する原理 より>
サーンキヤ哲学における<開展せるもの>(vyakta)は三つの構成要素または属性(guna)より成る。純質(sattva)は人をして明るく純浄ならしめるものであり、激質(rajas)は人を激し動揺しやすくさせ、翳質(tamas)は人をしてもの憂く暗からしめる。これらは人間の精神作用の三つの異なった側面を表現しているものである。
ところで、プラトーンも魂の三つの原理(philosophon,philoneikon,philokerdes)を認めていた。プラトーンは、人間には<利益を愛する部分>と<勝利を愛する部分>と<思慮ある部分>とがあり、この三つが個人存在を構成すると考えていた。これは順次にサーンキヤ学派の翳質・激質・純質に対応するであろう。

プラトーンの原理は非常に現代の欧米的ですね。日本もそうなってきている気がしますが、「世の中が病んでいる」といった話をするときには、サーンキヤ哲学における解釈のほうがしっくりきます。

<480ページ 第8章 輪廻と解脱 より>
サーンキヤ学派によると、具体的な現実生活においては、一個の生存者としての自身と、それに対立する他の生存者と、その両者から独立していてしかもその両者に支配的影響を及ぼす自然界(あるいはそれを支配する神々)とが対立しているのであるから、苦しみは結局それらのうちのいずれかひとつに由来するのであり、以上の三種によって苦しみを完全に分類しつくすと考えていたのである。
(中略)
サーンキヤ学派のこの<三苦>の思想は夏目漱石の『草枕』に影響しているという見解があるが、なお検討を要する。

草枕』、興味深い。メモ。(⇒追記:2015年8月に掘り下げて感想を書きました


このような解説を本で読めるというのは、本当にありがたい限り。このような優れた学術書は読むのに集中力が要りますが、書き手のエネルギーがどっしりと伝わってきます。

ヨーガとサーンキヤの思想―インド六派哲学 中村元選集 決定版
ヨーガとサーンキヤの思想―インド六派哲学  中村元選集 決定版中村 元

春秋社 1996-09



Amazonで詳しく見る
by G-Tools


夏目漱石の本・映画などの感想まとめはこちら