うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

身体論集成「3.身体と芸術」 市川浩(中村雄二郎 編)

1.身の現象学」「2.身体とコスモス」の続きです。これが最後。
ここで出てくる内容は、トリドーシャとか3つのグナみたいな話が多くてすごく面白かった。日本語には視点や状況を分類するために使う単語は、まあそれになりにそろっていると思う。が、性質(元素)を描写するために普及している単語は少ない。だから日本語で身体論を語ろうとするとどうしてもこんなふうに説明が長くなってしまうのね。なんてことを、この本を読んでいて思った。サンスクリット語って、すごいよね。
運動神経的にシンクロできないと挫折するので、今日はなるべくアーサナ中に感じることをコメントに添えるようにしますね。

<298ページ 身体の両義性 より>
内なる世界とわれわれの生の多義性は、たえずわれわれに現前することをやめない。夢はいうまでもない。いや通常外部知覚とみなされている触覚でさえそうである。私が白樺の木の肌をなでるとき、私が感じているのは、木の肌のなめらかさと粗さだろうか。それとも私の指先のささくれと私の掌の表面(あるいは裏面?)だろうか。あるとき私は、手がさわっている木の肌を感ずる。またあるときは木の肌にさわられている私の手の表面を感ずる。私はさわっているのだろうか。それともさわられているのか。いずれにしてもわれわれが木の肌を<図>として感ずるとき、手は<地>としてそのひそかな現存をたもっている。

弓のポーズ(ダヌラ・アーサナ)での「蹴っている脚」「引っ張られている腕」、肩立ちのポーズ(サランバ・サルヴァンガ・アーサナ)のなかの身体感。押しているほうだけに主語をおいていないかな? ということに意識を向けるきっかけを作ってくれる場面が、ヨガにはいっぱいある。

<302ページ 世界の受肉 より>
 芸術は、われわれが実用という限定から解放され、自由な仕方で世界とかかわり、可能的世界での受肉を実現する形式である。したがって芸術のうちに、<世界の表現>と<主観性の表現>と<表現形式そのものの内的秩序>という三つの極へむかうヴェクトルがみとめられるのは当然であろう。それは三角形の三つの頂点のいずれか一つの方向へと三角形がのびていったとしても、三角形であることを失わないようなものである。せまい意味での流派名ではなく、三つの傾向として理解すれば、自然主義表現主義形式主義は、この三つの極へ向かう傾向をあらわしている。古典主義とバロックバロックロココロマン主義写実主義といった対立は、多かれ少なかれこの三つの傾向の対立と差異を原動力としているといえるだろう。
 これはまた芸術家が、芸術言語の三つの機能、すなわち対象を<示す>機能と、自己の主観性を<表わす>機能と、受け手の反応を<喚びおこす>機能のうち、どの機能を重視したかということとも関係している。大ざっぱにいえば、自然主義ないし写実主義の芸術家は、客観的対象を<示す>機能を、表現主義者は、自己の主観性を<表わす>機能を、形式主義者は、作品の内的秩序が受け手の美的感情を<喚びおこす>機能をそれぞれ重視する。

「三つの頂点のいずれか一つの方向へと三角形がのびていったとしても、三角形であることを失わない」ということを、あたりまえの前提として性質分類をするインドの三質分類の言いきりはいつも面白い。「どこかが飛び出きったら線になるかというと、そうならないものなのよ。3つでバランスしてるの」という、「陰陽」に加えて「存在」や「動かす」の成分が入ってる。ここでいうと、<喚びおこす>。
「押す」「押される」「その状況を持っている(バランスしようとする動力)」。
ゼロの概念「ないという状況がある」のようにリターンしあう二極ではないものを考えるときに、「存在させるもの」を定義するところがインドのおもしろいところだと思っていたけど、芸術についてこんなふうに考えてみたことはなかったなぁ。

<310ページ 可能的世界をとおして より>
芸術家は外的な対象、あるいは内的なイメージにさそわれて、作品を創り出すのであるが、創りはじめるやいなや、かれは自分の作品によって逆に触発され、いざなわれる。画家がある作品のために無数のデッサンを重ね、キャンヴァスをぬりつぶし、ナイフでけずりとり、色と形を変容させるとき、かれはもはや対象にしたがっているのか、自己のうちのイメージにしたがっているのか、それとも画面の秩序にしたがっているのか、自分自身区別することができないであろう。芸術家は、対象と自己の主観性と作品の内的秩序という三つのヴェクトルに身をゆだねつつ、制作の行為のなかでそれらを生き、現実世界に対峙しうる充実した虚構空間を創造する。

こころで動かしているのか、身体に動かされているのか。まーヨガでいうと「それをつないでいるのが呼吸です」というオチになるのだけど、<内的秩序>といわれると、これまたおもしろい。

<317ページ メタとしての芸術家 より>

 ふつう言語についてメタ言語ということがいわれる。

(中略)

 たとえば感覚についてもやはりわれわれはメタ的なのではないか。つまり、われわれがふつう感覚と呼んでいるものは、動物レヴェルの感覚とはおそらく異なったメタ性を帯びているのではないか。味覚を考えてみよう。動物は、食べられるものと食べられないもの、新鮮なものと腐って害になるものを鋭敏に区別する。ところが、この実用的味覚のレヴェルをあらわす言葉は日本語にはない。
(このあと「味わう」「舌の上でころがす」などの例が続く)

内田樹ファンのみなさん、おまっとさん」な部分ですね。

<324ページ 知覚と感情 より>

 芸術作品は、こうした感覚=運動過程のダイナミックスをいわばその記号的な相関物、コレラティヴをつくりだすことによってメタ化する。大ざっぱにいえば、それが記号化の過程にほかならない。この感覚=運動過程を表現するコレラティヴとしての作品は、実用的行動へと実現する必要がないので、行動によって現実には抑圧されるさまざまの多義的な感情的・知覚的な合意を可能性として含むことができる。

画像はこの部分にあった「知覚的側面」「感情的側面」によって「感覚」が発現し、それだけではまだ「生まれかけの運動」なのが、「運動(行動)」となる、の分解図です。
感覚は、行動して表れなければただそれだけ。という話ではなく、根っこでは「感情的・知覚的な "合意" を可能性として含む」ことができている状態なんだな、というふうにも読みとれます。行動した瞬間にその感覚のバランスは「出て行った世界の影響」を受けて、感覚の段階では共存していたはずの「感情と知覚」の合意の絆がゆるんでいったりする。もともと合意していないことも多いと思うけど。
「感覚」「知覚」「行動」でまとめたほうが容易そうなところを、感情まで深追いして分解しているのがおもしろかった。

<334ページ 像なしの時代と創造 より>
 創造というのは、多くの民族の創世記神話にあるように、混沌(カオス)を秩序(コスモス)に変えるということだが、芸術はそれを反復しようとする。芸術はすでに存在しているコスモス ── 多くの場合、われわれはすでに日常的秩序が存在しているところに生まれてくるわけだから ── を疑い、日常的秩序をカオスとしてとらえ直す。それによってコスモスを再創造しようとした。伝統的には、祭りではたえずそういう創造の反復、つまり神の創造行為の模倣(まねび)とか反復が行われる。宗教的行事としての祭りの場合には、力の弱ったコスモスをカオスに変えることによって、もう一度パワーをもったコスモスをつくり出すという意味をもっているのだろう。芸術の場合にも、とくに近代になると、社会がもつ既成の秩序、常識的な感覚とか感覚の秩序をカオスに返すことによってコスモスを再創造しようとする。そういう点で近代の芸術というのは、神の創造の行為の模倣とか反復であるというよりは、神の創造の行為そのものの簒奪という性格をもっている。これは「芸術のための芸術」という、芸術の自立性を求める考え方と照応しているわけだ。そして芸術家は、大衆はブルジョワジーの常識的な感覚や世界観から離れ、それを軽蔑する。反俗を旗印にするという現象が一九世紀末から顕著になる。創造を個の力業によって果そうとするが、それはますます大衆との距離を拡げてしまう。共有感覚を失った個による想像は、恣意と区別することがむずかしくなる。現代の芸術もそうだが、そのことによって共有感覚と想像の活力を失うという現象が起こってくる。つまり創造者だけあって観客や聴衆や読者がいないという不健全な現象が現在、多くの芸術にみられる。そのもとには、失われた像を自分で回復しよう、あるいは自分で自分を根拠づけようとする、像なしの時代のあがきがあるといえよう。

「宗教的行事としての祭りの場合には、力の弱ったコスモスをカオスに変えることによって、もう一度パワーをもったコスモスをつくり出すという意味をもっているのだろう」というところに、「なるほど」と思う。「もう一度」「もう一度」と、時代時代でいろんなことをやって、いまのスピリチュアル・ブームがあるんですよね。
「創造者だけあって観客や聴衆や読者がいないという不健全な現象」というのもほんとうにそうなんだけど、マーケティングやプロモーションに長けた芸術家を批判するのはまた別の話だ。

<367ページ 感応的同調ないし構造的同一化 より>

ダンスや芸術について述べている場面での図。

アーサナのなかにもこういうことがありありなんだけど、これを文章にしようと思うと、むずかしくてねぇ。
顕教に限界を感じるのは、こういうところ。


身体論のなかでここまで芸術と結びつけて書かれたものは初めてだったので、とてもおもしろかった。
運動を通じて身体論に触れる人は多いと思う。自分の場合はたまたまそれがヨガなんだけど、こういう本を楽しめるとき、「ヨガすげー。ヨガすげー」といちいち思っちゃいます。

身体論集成 (岩波現代文庫)
市川 浩
岩波書店
売り上げランキング: 179031