これは、仕事仲間のしげさんが貸してくれました。彼女は半年くらい前から、「講師」業務に異動。日々勉強しているみたい。
人に教えること、というのは本当に学びが多いです。同じ言葉でも、リアクションがぜんぜん違います。ヨガの場面では、それが目に見えたり、呼吸音でじかに伝わってくるぶん、医学的だったり精神学的な側面を感じることがあります。これは本当にありがたいです。
仕事の場面では、あえてその場の反応をまったく気にしないようにしています。いつまでに本質をつかむか、もしくはずっと指摘された「事実」のみにとらわれてしまうか。これだけ。
「事実」への対応を積み重ねても「本質」には向き合わず、サラリーマンとしてうまく立ち回っているように見える人も大勢いますが、「本質で評価する人」に、それは通用しないのではないかと思います。
「本質で評価する人」に出会わなかった分、収入面で得をしているかもしれませんが、「長い人生、そこをごまかし続けて生きるのはつらくないのかな?」と思うことも。「ここまで視野を狭くコントロールして自己評価を高く保てるって、ある意味しあわせなのかも」とも思いますが。
この本はわりと強い断定口調で、読んでいて爽快でした。いくつか紹介します。
<28ページ 学ぶ側の構えを作る より>
では、学ぶ側の構えとはどういうものか。私は「積極的な受動態」と「消極的な受動態」という考え方をとっています。
積極的な受動態というのは、何かを受け入れていくときに、積極的に吸収していく感じの構えです。消極的な受動態というのは、上手に引っ張ってくれればその気になるかもしれないけれども、基本的に傍観しているという構えです。
「上手に引っ張ってくれれば」というのは、100歩譲っても「超美人」しか許しません(笑)。
<83ページ 評価を避ける姿勢は学ぶ側のためにならない より>
自己客観視ができないと、自信満々なのだけれども実績は何もないまま、二十代を過ごしてしまったりする。そういう人は三十代になったとき、相手にされなくなります。だから、自己客観視というものと、自己肯定力というものをバランス良く育てるために、評価することが必要なのです。
同時に、「相手にされていないことに気づかない人」にもなってしまうかと。
<156ページ 相手を退屈させない「メリハリ」の技化 より>
遊びならばテンションを上げるのは簡単にできますけれども、まじめにやっていくことに関してはテンションが上がりにくい。ですから、教える側というのは、学ぶ側のテンションを上げるための存在でもあるわけです。
四六時中、ハイテンションでなくてもよいのですが、教えるという場に立ったときには、自分のギアを2ランクくらいアップして臨むこと。
これは本当にそう思います。存在価値って、そこにしかないんじゃないかくらいの。
うちこは、趣味がシール集めでも、そうゆうことをするという場面ではあえてギアを入れるタイプなのですが、それで肉食動物的な扱いをされるとけっこう萎えます。だって、そう言ってる人よりも絶対に食生活が草食なんだもの。焼肉なんて、ランチで年に3回行くか行かないかだし。
机上の空論が得意なみなさんには、「血の"量"じゃなくて、"質"の話」をしていただきたいものです。
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