子どもはやっかいだ。大人に言い訳をさせるから。
旅先でこんなことがあった。
貧富の差が激しいカンボジアの山間部で、物乞いの子どもにつきまとわれた。
ベトナムへ移動する高速バスのトイレ休憩で有無を言わさず食堂へ通された。トイレはその奥にあるという。地元の子どもがその食堂の中まで入ってきて、手に紙幣を持ってごにょごにょと呟きながらついてくる。
10歳くらいに見える身体の大きさのわりに、幼稚な態度でついてくる。
腹を立てたので金を渡せなかった。
心の準備をしなかった自分自身に対しても腹を立てた。
わたしの心の準備は物質的な準備を伴う。物乞いにあうことがわかっていれば、ポケットにコインや紙幣を入れておく。それ用に準備しておく。
それが最も激しかったインドでは子どもに5ルピーを渡すと「もっとだ! 10だ! 10ルピーだ!」と価格を叫ばれる追い討ちがあるし、相手が高齢者の場合は置かれた鉢にさっと金を入れて立ち去らないと、あとがしんどい。
「わたしにも」「こっちにも」「もっと」と迫る目で精神的ダメージを受けないようにしてきた。財布を手にして考えるとさらにすごい目に遭うので、絶対に財布は出さないと決めている。
カンボジアでは油断していた。その子どもから一旦離れて準備をしてあとでサッと渡すこともできたのだけど、完全に気持ちが折れていた。
言い訳の論理が止まらない時間は苦痛だ。
その子どもは、なにかごにょごにょ口にしている。喋れないふりをしているのか。そんな幼稚なふりをしなくても君はもっと喋れるんじゃないかと思って目を見たら、大人の仕草で逸らされた。
子どもの頃の自分を思い出した。
「言いたいことがあるならふてくされてないで言いなさい」とよく親を怒らせた40年前の自分がそこにいた。
(この話は身近なフィクションです)