たまにヨガクラスの前に話したトピックについて座学にしてほしいと言われることがあるのですが、長尺で話す前提じゃないからできている話題のチョイス・テンポ・リズムというのがありまして。
「身体を動かす前提で集まっている場」だから話せています。
「お勉強」を体系立てて時系列でやろうとすると、内容の紹介の時点でどこまで書く・書かないを決めることになり、実施を考える点で精神的に最も工数がかかるのは、実はそこだったりします。
話者側のスタンスとして、「学びを獲得するゲームで達成感を得る場(もしくはその形式の中での「承認」)」へのニーズに反応せずに進行するのって、けっこう体力がいるものです。
(だから世の中にはオーガナイザーという立場の仕事があるのだと思っています)
わたしの場合は身体を動かすヨガが好きな人に向けて話すとなれば、それだけで格段に話しやすくなる。そういう性質があるので、練習前の雑談の延長線上にあるものが、いまのわたしに負担なくできること。
そこまでならできるかな、と思っています。
先日、GWの夜にちょっとしたインド史漫談をやりました。
その日は朝から暇な予定で、夜のヨガクラスの前にスライドを作成できちゃうぞ〜! と思ってやりました。資料は当日に作りました。
こんな会話からはじめました。
ヨガを続けていると、こういうことがありませんか。
「バガヴァッド・ギーター」を読んでいないと、理解できないと
薄っぺらいんじゃないか、というような。
そういう広告がSNSで流れてくると、わたしは複雑な気持ちになります。
それ以外の入り口もあるのでね。
という話をしたあとに、スライドを表示して話をしました。
年表を使って話をしたあと、地図を使ったまとめのパートでこんな話をしました。
ガンディーが「バガヴァッド・ギーター」を読んだのって、
イギリスへ行ってからなんです。
そこで自分が差別を受けて、
その環境に馴染むために魂を売っている自己とナショナリティを内省する経験をし、
そこからギーターに触れています。
そもそも外国人であるわたしたちが文字でその詩を読んで、
いきなりサクッと入り込めないのは、そりゃそうです。
その日は「ヨガの歴史・空白の400年」の話をしました。年表と地図を用い、現代でイメージするヨガの話があまり出てこない時代の話をしました。
ヨーガの精神面での教えが「歴史の中でくすぶっていた心」を分解し燃やしていく方法として見直された背景を伝えたくて、近代インドヨーガ史をやりました。
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その日はチャールズ国王戴冠式の日でした。
キリスト教だけでなく、ユダヤ教、イスラム教、ヒンズー教、シーク教、仏教を信仰する代表者が出席して式の進行の一役を担ったことが話題になっていましたが、その背景も理解しやすくなったかと思います。
モディ首相の Instagram が「西部警察か!」と思うほど軍事力・戦闘力をバリバリに誇示するものでありながら、一方で Facebook では精神的に謙虚な面を打ち出すメディアの使い分けをしている賢さ・したたかさも、経緯を知ると合理的に見えてきます。
そしてこの「わからなさ」は、他国の人が日本の人の考えや行動を見ても同様に起こること。
自分のことを理解するために他者を理解するプロセスは、「個人」の単位で注目すると矛盾が気になったり批判的になったり、うまくいったのはそもそも恵まれていたからでしょう? なんて卑屈な視点も立ち上がりやすくなるもの。
だけど「国・ナショナリティ」まで引きの位置へ視点を持ってくると、応用がききやすくなります。
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いまはG7で来日中の英国のスナク首相とインドのモディ首相がまたそれぞれ、話題を巻き起こしていますね。
岸田首相はインド訪問後にそこからウクライナへ入っていたので、なんらかの話し合いがあったのではないか、などとついつい注目して見てしまいます。
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今日の流れからインド的な正直さや考え方に興味を持たれたかたは、余力のあるときに以下を読んでみてください。正直で誠実な批判を日本へ向けたマハー・アートマーの言葉の整理のしかたが感じられる文章です。