うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

流れる 幸田文 著

わたしにはいくつか、経験から行き着いた座右の銘のようなフレーズがあります。

きっとこういう事なんだと思う経験を繰り返すなかで、自分にフィットしてきた信条のようなものです。

その中のひとつが、まさにこの小説のテーマと同じでした。

 

 

   自分の居場所は自分でつくる

 

 

自分の望むタイミングとは関係なく生活を変えたり、望む方向ではない環境で踏ん張ってみたり、続けていたことがあとになって自分の居場所として育っていたり。

いろいろなことがありながら、いずれにせよ自分で居場所・状況をつくってきたんだと、そう思うことで未来の自分を改善思考で捉えられるようになります。

たぶんこれは、自分が傷ついてボロボロにならないための大人の知恵であり、方便。だけどわたしはこの方針がけっこう気に入っています。

それを客観的な形で再確認するように見せてくれたのが、まさにこの小説でした。

主人公の思考と立ち回りのすべてが、わたしの座右の銘を組み立てた世間の荒波の再現のよう。

 

 

主人公の梨花40代の未亡人で、夫と子供に先に死なれています。

しかもこの本が書かれた昭和30年にしてはかなりのキラキラネーム。主人公自身がこの名前に困惑していて、仕事を探すにあたって面接の時点でそれをネタにして笑ってくれるような職場のほうが働きやすいわ、と思うような性格です。この時点ですでに友だちのように感じるキャラクター。

酸いも甘いも嚙み分けて人間の性格を多角的に分析・言語化できる主人公が、粋と無粋のあいだを行ったり来たりします。

 

 

前半は文体に慣れるまで、かなり読みにくいです。

だけど読み続けるとおもしろくなってきます。

以下は、お給料は安いけれどおもしろそうだからここで働く! と決めるときの主人公・梨花さんの思考です。

 二千円は廉いが、配給いらずの米の飯、保証人なし、外泊自由はわるくない。が、そんな条件より梨花の心を惹くものがこの土地全体にあった。この土地の何に心惹かれるのかははっきり云えないが、とにかくこの二日間の豊富さ、── めまぐるしく知ったいろんなこと、いろんないきさつ、豊富と云う以外云いようのない二日である。

その豊富さは、つまりここの世界の狭さということであり、その狭さがおもしろい。狭いからすぐ底を浚って知りつくせそうなのである。知りつくした上に安心がありそうな希望が湧いているのである。しろうとの世界は退屈で広すぎる。広すぎて不安である。芒っ原へ日が暮れて行くような不安がある。広くて何もない世界が嫌いだというのは、ここが好きだということになる。雇傭関係はきめられた。

なかなか理屈っぽくておもしろいおばさんでしょ(笑)。

 

 

もう子供を産むこともないし、芸を売るわけでもない。自分はいつまで女っぽい気持ちで過ごせばいいやら・・・なーんて思いながら日々忙しく働くようになった梨花さんは、ある日、仕事中にこんなことを思います。

 二階で手が鳴った。鋸山が、烟草を買ってくれと札を出す。やれやれと云いたい。 芸者家の女中はお使いを億劫がっては勤まらないと八百屋に聞いたが、このごろでは駈けることはないのにと自らたしなめても、腰を落し割烹着のポケットに手を突っこんで小走りに駈ける癖がついてしまっている。 新生の袋と銅貨と受け取って、一二足帰りかけると、ももに感覚があった。われながら妙に昂ぶるとおもったが、なんだこれか。産む必要がない身に妊孕可能の赤い通達があったとて、むだな排泄と云うほかない。が、それとてもうそんなに長い期間でもないだろう。習慣的に紅い花に反射する白い綿の花を買う。綿は烟草屋でも売っているものなのである。四十円の徳用大袋を薦められて、五百円札はごたごたしたつり銭に換えられた。

「われながら妙に昂ぶるとおもったが、なんだこれか。」のパンチがすごい(笑)。

原文では赤い文字のところに強調点が打たれていて、まだやってくる生理をつり銭のように感じている事がわかるユニークな文章です。

 

 

芸妓さんたちの会話も最高です。

以下は、もう老眼鏡が必要になっている年増芸妓・染香さんが、着物の帯を売りつけられている場面です。

「いやだねじみだよ、これ」とよく拡げもしないうちに、さすがに眼は正気だ。「……グリーンだって? いやだよ、こんな染めっかえしみたいな色! この模様これなあにい? これんぼっちの模様? これっきりかい? 情けないね、しけた柄だね、ビタミンが不足ですって松だねこりゃ。」

(原文では「じみ」に強調点が打たれています)

わたしはこれまで松とビタミンを紐付けて考えた事がなかったので、ここで爆笑してしまいました。全般、ギャグセンスがかなりハイレベルです。

 

 

  *  *  *

 

 

この先は物語の後半に触れていきます。

結末に関係する部分には触れませんが、ストーリーの背景などをまだ知りたくない人は、ここでブラウザを閉じてください。

 

 

  *  *  *

 

 

この小説がおもしろいのは、少しずつ梨花さんの過去が明かされていくところ。

水戸光圀公が ”旅するほっこり爺さん” の仮面をかぶっているというほどではないものの、梨花さんはかつて自分が主人として女中を持つ生活をしていた事があるみたい。

自分が職場で病気をした際に主人とその娘さんが慌てて対応してくれたときに、梨花さんはこんなことを思っています。

梨花はうつらうつらと主人と女中ということをおもう。かつて自分もいまのここの主人のような思いをしたことがある。女中の病気がわるくなってはじめて後ろめたく、かつ今更ながらに本心案じる気でまごついてしまうのだ。主人とはそういうルーズなもの、女中とはこういう気がねな境遇なのである。けれども自分がいま女中でこんなふうに病気になって主人をまごつかせているのは、なにか清々しいところがある。

過去の後ろめたさがここで帳消しになったような気持ちになることを、”なにか清々しいところがある” と書いているのが興味深いところ。

こういう話が出てくる後半から、梨花さんの視点にさらに引き込まれました。

 

 

梨花さんは病気をしたときに、勤務先からは惜しまれながら手厚く送り出され、運び込まれた従姉(いとこ)の家では雑に扱われます。

そのときの気持ちに、こんな一文が出てきます。

 文句を云う気はない、ただそういうことだと思うだけだ。

 

これは仕事を得たあとに梨花さんが感じている、身内に対する不満です。

この前後の文章で、あんなに多くのお金を渡したのによくもこんな雑に作った食事をいけしゃあしゃあと出せるもんだな、疎まれているのはわかっているけどさすがに品がなさすぎじゃないか、という怒りが示されます。

この文章がすごいんですよね・・・。前後も含めて引用します。

この粥のなんというあじけなさ、まずさ、二千円はずんである粥がこれである。七日間三食で二十一食になる、そんならいくらにつくか。うどん玉一個に葱添えて十円、コロッケ一個五円、コッペ一ツは十円、団子一ト串十円、米は一合十七円だ。うちのものは餅に飽きておひやをふかしてたべるだろう、ふかしごはんの残ったびしょびしょへ水をぶちこんで一トふきさせれば、こういうまずさになるのを梨花は知っている。はっきり実際で承知しているのだ。米粒の荒れがそれを明らかにしている。生ぬるくうすら冷たく性のぬけた粥を、出す人は羞しげもなく、出された粥のほうが病人に恐縮しているのである。

 文句を云う気はない、ただそういうことだと思うだけだ。この味は誰の味だ。こしらえたのは従姉だから従姉の味だとも云える、感じる舌はこっちの舌だから自分の味でもあるのだ。つめたいような温かさ、温かいような薄つめたさ、それが作るひとの味、たべるひとの味だ。たべるひとの身分や思わくを考えに入れての作るひとの味、作るひとの身分や思わくを考えに入れてのたべるひとの味でもある。どっちもどっち、それでいい、つまらないことだ。ただこのへんで何かがはっきりと打切りになるような気がする、そんな味だというだけのことだ。

なかなか理屈っぽくておもしろいおばさんです。(2回目)

梨花さんて、たぶんちょっと人間嫌いなんじゃないかな。モリエールの「Le Misanthrope(孤客)」に出てくるアルセストみたいな面をちょいちょい見せてきます。

梨花さんはそもそも身内からその性格を疎まれてたんじゃないのか……

 

 

小説の終盤では、自信をつけた梨花さんのガードが少しずつ甘くなり、承認欲求が漏れ出してきます。

梨花さん頑張れー!」という気持ちと同時に、「梨花さんそれ、嫌われるやつだよー!」と、いつの間にか自分も参加させられちゃう展開。

 

 *  *  *

 

映画を先に観てから小説を読むと、梨花を演じる田中絹代さんの頭の中を種明かしされたような感じになること間違いなしです。

小説を先に読んでから映画を見ると(わたしはこの順番でした)、主人と芸妓のやり取りの実写化に感動します。山田五十鈴(主人)×杉村春子(染香)×岡田茉莉子(なな子)のやり取りに、脳内スタンディング・オベーションが止まらなくなります。