先日、島崎藤村の『破戒』を題材に読書会をしたら、この物語を読んでいる最中に起こったイライラについて自己の振り返りをされているかたがいました。
読書会をすると、ディスカッションタイムでの発言以外にも、誰かの言葉が印象に残ることがあります。
じれたりイライラしていると観察力が弱まってしまうのは、わたしにもよくあること。
謎解きのような推理小説を読んでいると、観察力の弱体化を促しつつそこに見落としの材料を置いておくことに策を感じますが、島崎藤村の場合はまるで逆。
放っておけば延々続きそうな描写に、読者がじらされます。その文字列を追う間に、”人間はこうやって、延々ひとり相撲をしているものでしょう?” と、自己の振り返りを促される。
ラーメン屋で「子供がまだ食ってる途中でしょうが!」と最終的に声を荒らげる『北の国から』の黒板五郎がやっている子供とのコミュニケーションと似ています。
イライラしている自分の心が、あの時のラーメン屋の店員のように見えてくる。
(喩えが細かく、かつ、ピンポイントでごめんなさい。このシーンが浮かばないヤングはぜひ「北の国から 子供がまだ食ってる」で検索し、5分以上ある長い動画を観てみてください)
島崎藤村の小説を読んでいると、「要約」「まとめ」「分解・説明」「ズバリ言うわよ(←古い)」にすっかり慣らされている自分に気づきます。
『破戒』って、場面と状況と心情の描かれかたの丁寧さ・スピード感が『北の国から』と似てるんですよね・・・。父と子の、言葉は少ないけれど深すぎるコミュニケーションという構図も。
『破戒』の丑松の存在が、「丸太小屋の火事を出したのは僕の責任だと、ずっと言いたかった。でも言えなかった。それは、僕が弱いからで・・・」と言葉を絞り出すように時間をかけて話す小学生の黒板純くんのように見えてくる。
毎度のことですが、喩えが古くてごめんなさいね。だけどアタクシそう思ったんです。
▼商品化されているなんて知りませんでした