うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

吾輩も近頃運動を始めた


やっと安定して春になってきましたね。東京は4月の前半まで急に寒くなる日が発生して、気温も不安定でした。
走りたくても雨だったり異様に風が強かったりでしたが、今週は50分程度のジョギングを2日挟むことができ、アーサナ以外の動きも取り入れています。
そしてわたくし、ここしばらく、頭の中で本格的に猫を飼っていました。ニャー☆
実際の猫と違って頭の中だけの猫なのですが、猫ってこわいですね。主人の生活やその周辺、世相をかなり辛辣に見ている。わたしが飼っている猫はタイピングができるので、今日はこのブログの執筆を猫にバトンタッチします。
猫にはもちろん、名前がありません。名前がないのは有名な話なので、説明は割愛しますね。この猫は100年以上生きている明治生まれの猫なので、若干ベースの文章が古風です。

 吾輩は近頃運動を始めた。ヨーガ講師の癖に今更運動なんて利いた風だと一概に冷罵し去る手合にちょっと申し聞けるが、そう云う貴方だってつい近年までは、食って寝るのを天職のように心得ていたではないか。無事是貴人とか称なえて、懐手をして座布団から腐れかかった尻を離さざるをもって暮したのは覚えているはずだ。柔軟体操をしろの、酵母を食せの、ふくらはぎを揉めの、瓶に色のよい野菜を詰めて鞄に入れたのち人前で再び出して写真を撮りInstagramに掲載の後食せよとくだらぬ注文を連発するようになったのは、西洋から神国へ伝染した輓近の病気で、やはりペスト、肺病、神経衰弱の一族と心得ていいくらいだ。どうも二十一世紀の今日運動せんのはいかにも貧民のようで人聞きがわるい。運動をせんと、運動せんのではない。運動が出来んのである、運動をする時間がないのである、余裕がないのだと鑑定される。昔は運動したものが折助と笑われたごとく、今では運動をせぬ者が下等と見做されている。吾人の評価は時と場合に応じ猫の眼玉のごとく変化する。猫の眼玉はただ小さくなったり大きくなったりするばかりだが、人間の品隲(ひんしつ)とくると真逆さまにひっくり返る。ヨーガを行ずる人間は殊更にひっくり返る。ひっくり返っても差し支かえはない。物には両面がある、両端がある。両端を叩いて黒白の変化を同一物の上に起こすところが人間の融通のきくところである。方寸を逆さまにして見ると寸方となるところに愛嬌がある。天の橋立を股倉から覗いて見るとまた格別な趣が出る。セクスピヤも千古万古セクスピヤではつまらない。偶(たま)には股倉からハムレットを見て、君こりゃ駄目だよくらいに云う者がないと、文界も進歩しないだろう。だから運動をわるく云った連中が急に運動がしたくなって、男までがヨガマットを持って往来をあるき廻ったって一向不思議はない。ただヨーガ講師があらためて運動を語るのを利いた風だなどと笑いさえしなければよい。
さて吾輩の運動はいかなる種類の運動かと不審を抱く者があるかも知れんから一応説明しようと思う。御承知のごとく不幸にして断捨離ブームのなか機械を買う事が出来ん。だからボールもラケットも入手に困窮する。吾輩の選んだ運動は一文いらず器械なしと名づくべき種類に属する者と思う。そんなら、のそのそ歩くか、あるいは馳け出す事と考えるかも知れんが、ただ二本の足を力学的に運動させて、地球の引力に順したがって、大地を横行するのは、あまり単簡で興味がない。いくら運動と名がついても、オリンピックなるもののような商用運動はどうも運動の神聖を汚す者だろうと思う。勿論ただの運動でもある刺激の下にはやらんとは限らん。カーヴィー運動などは結構だがこれは肝心の痩せる目的があっての上の事で、この目的を取り去ると索然として没趣味なものになってしまう。懸賞的興奮剤がないとすれば何か芸のある運動がして見たい。吾輩はいろいろ考えた。


生意気なんですよね…、うちの猫。ニャーっていいながら、いろいろ考えてるんですって。勝手に考えてろ。
こうやって模倣をしてみると、当時の文筆家がどんな心持ちで思想を筆に乗せていたのが、身体的に少しだけ感じることができます。
今日の文体練習の下敷きは「吾輩は猫である」の「七」の冒頭です。


▼おまけ:昨年は犬だったワン