うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

よろめいても大丈夫、と思える生活のためにヨガをしている

いっしょにヨガをしている人たちと特別こんな話をしたわけではないのですが、最近こういうところに共感してもらえている感じが伝わってきます。
それは、日々の生活のなかで「よろめいても、ヨガでリセットすれば大丈夫」という意識でいること。これはなかなか言葉にしにくいことなのですが、練習の結果の応用のしどころは、こういうところにあると思っています。



 日々の生活環境で「刹那に」変化する
 「さまざまな」尺度への適応



人と接するとき、そのなかの構成比のなん%かを「自分」が占めることになります。発言しなくても、その場にいるだけで意味が発生してしまう。意味を発生させるのは「場」「相手」「組織(人が二人いたら、もう組織)のなかで起こることなので、コントロールはできません。変化しながら続くコミュニケーションの中で、価値観のエネルギーのやりとりが、卓球のラリーをしのぐ速さで繰り返されている。
で、ときに妥協もするわけです。「空気を読んでやり過ごす」「ムードに流されておく」ということも、します。拡大解釈のありようによっては居ただけで同意したものと扱われかねないことがわかっていても。ここは迷うところでもあるのですが、まあときにやり過ごします。



それでも人には思考の傾向や癖があり、美学というほどのことでもないけれども「こうありたい」というエネルギーがあります。これがない心の状態のことを、をわたしは



 つるつるのタイヤ



と呼んでいます。
心のタイヤがツルツルになってしまうと、いざというときにグリップが効かない。
グリップが効かないと、立ち位置を安定させることができません。心のサマスティティ(sama=平衡/安定・stitih=安住/定住)のグリップが効かなくなります。こうなると、流れ流されヴァータ病。のび太の足が車になって走っているような心の状態になります。



 で。



社会のムードや日本人的な思考を嘆いても、しょうがない。もうこれは、しゃーない。
わたしもヨガをはじめて体力がついてきたころ、ここに納得ができず「盗んだバイクで走り出しそうなヨギ」だったことがあります。でもね、まわりの多くは運動不足だから、浮くの(笑)。飲み会やネットワーク上でちちくりあっている人たちと離れて運動にハマると、それはそれは、たいそう浮くの(笑)。



 そんな時期も経つつ……。(ここで、いいかんじでヨゴれました)



その都度さまざまなことに適応しつつ、自分をちょいちょい取り戻す。わたしはこの「戻しの作業」にヨガがとてもよいと思いまして、で、やっぱり運動します。
「ヨガで自己実現」って、直接的にはないと思うんです。ただ、ツルツルのタイヤになりかけていたときにグリップがもどって前進できたときに、そう感じることはあるだろうと思います。そういう瞬間にスポットをあてて「ヨガはすばらしいものですよ!」と表現するアプローチもできるのですが、残念ながらもう少し目利き力のついてしまったヨゴレたオトナのみなさんには、まずは「思考のタイヤの溝をちょいちょい戻すことの効用」を味わって欲しい。そんなことを日々思っています。
これから通常よりも人に会う機会が多くなったり、年末年始特有の高揚感のなかに身を置くことが多くなる人も、どこかでちょこっとチューニングしていけば、大丈夫。ヨガはおうちでもできますから、ちまちまと地味に乗り切っていきましょう。