うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

フランクさと友達フラグ

友人の愚痴をきいた。

「そんなに親しいか?」と思う知人から突然電話が来て、頼みごとをされたという。電話番号自体、「断わるのもなんだか・・・」という状況で聞かれて教えたので、携帯のアドレス帳登録をしていなかったそうだ。
「どちら様ですか?」「登録してなかったの? ひどーい」と言われる流れで、久しぶりの会話(はじめての電話)がはじまって、それでも結局頼まれたという。それが目的でかかってきた電話だから、そりゃそうだ。


ありがちな話なので、頼む側がどうかしているともさほど思わない。よくある「友達フラグを立てる基準のギャップ」の話だ。


本当につらい状況なんてそんなに何度も話す気になれるものではないから、SOSを投げる友達はせいぜい3人。そこで立ち直るためのこころの支えは得られるのではないかと経験から思うのだけど、「つらくない状況」での人数となると、定めようとするほうが面倒ということになる。



知り合いの数は活動に比例する。
それを可視化するツールに「違和感」を感じる人が多いけど、潜在意識や孤独を感じる閾値のあぶり出しツールでもあるので、流行っている今だからこそ顕在化しているものを見たらいいんじゃないだろうか、と思っている。



友達と顔見知りの間のグラデーションは、その人のその瞬間のバランス。そのとき寂しいかイケイケかで、感覚値は簡単に中間地点の反対側に振れる。共有した行動の量は測っても形にならないから、「絆」なんて玉虫色のことばが存在する。
24時間テレビは、これを24時間でやろうとする番組だ。ある意味すごい。



好意にしろ依存にしろ、勝手な期待にせよ、あるいは利用されているにせよ、その行動の裏に条件をつけられていることまでいちいち考えるとつまらなくなるし、きりがない。
それをどうとるか否かは自分が決めることだ。修行しだいで心底スルーもできる(たぶん)。



「それをいちいち気にしなくてもいいのが、友達」



「友達が多いこと」「知人が多いこと」「たくさんの人に期待されること」「たくさんの人に依存されること」はみんな成分が微妙に違うのだけど、どれも自分だけで舵取りができるものではない。
自分で舵取りをできないかわりに、それを上手にお金に換えることもできるという仕組みになっている。
意識の種類を分解せずに、ゆるゆるとやれちゃう雰囲気に包まれながら普及しているソーシャル・メディアの状況を見るのは、実におもしろい。
そのうち「馴れ馴れしい」という言葉の定義は「人懐こい」とか「オープンな人」に吸収されて、ポジティブ・コーティングされるのかな。



これからなにを開いて、なにを大切に守ろうとしていくのだろう。
大切なものが見えてきそうな気がするのは、少しわくわくするね。