うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

悪人正機 吉本隆明×糸井重里 著

すこし前に読み終えた本の感想を書きます。ひとつのことにとらわれがちな毎日なので、あえて自分で選んで転記した部分を読み直したくなった、というのもあります。平常心でいたい。
この本は、大阪仕事の後にお茶したときに革ヨギからいただいたお下がり文庫。読んでいるうちから「ものすごく面白い!」と聞いていたのですが、東京に戻ってからすぐにイッキ読みしてしまいました。
うちこは吉本氏のことを「ばななさんのお父さん」であるということしか知らず、著作を読んだことがなかったのですが、いきなりこの本でその「あたりまえに自然」なスタンスに驚きました。
そしてこの「悪人正機」という言葉には見覚えがあって、ああそうか、親鸞さんのなにか(たぶん五木寛之さんの本だと思う)で読んでいたのでした。親鸞さんは肉食妻帯をはじめ、いろいろなことに「そのタブー感、無理してないかい?」「その強制感、オープンじゃないよ」というスタンスで生きた人。ここではあまり親鸞さんにフォーカスをあてたことを書いていないのですが、うちこは新潟県出身なので、親近感を持っていたりします。良寛さんもそうですが、どちらも色っぽいエピソードがあるところが好きです。


わくわくしますね。おもしろいですよ。息抜きしましょう。

<56ページ 「殺意」ってなんだ? より>
我慢の限度というのは、自分自身で「ここまで行っちゃったらおかしいよな」って思う、その度合いによって決まるわけです。
 そうするとね、今の精神医学者なんかが言ってることが、俺には気になってしょうがない。つまり、どの辺までを正常とするという範囲を、もっと拡げなければいけないんじゃないかと思っているわけです。
 なぜなら、今の社会に生きる人の正常の範囲は、現行で考えられている正常の範囲に比べると、拡がっていると考えなくちゃいけないからなんです。
 ところが、この範囲からはみだしたら異常だという専門家の枠組みは、昔から変わってないし、ある意味ではもっと狭くしてるくらいなんですね。現行の正常の範囲から、ちょっとでも外れたら、それは異常だと言って済ませた気になってるでしょう。本質的には、その正常の枠を拡げなければならないってことを、精神医学の専門家がちゃんと示してくれないといけないのに、全然そうしてはいない。で、池袋や下関のような事件の際にテレビに出てきたりして、何を言うかと思えば、精神医学でもなんでもない<法律論>を言っているんですよ。「これは罪だからいけない、異常だ」ってね。
 ……現実と専門家が逆になってるんですよ。


(中略)


<清潔>ということでも、同じことがあります。ほら、歯の間の垢を取る「糸ようじ」ってあるでしょう。歯医者さんもいいって言ってますけどね。でも、少なくとも僕らが小学校に入って、歯磨きをやり出した頃にね、あんな細い糸で歯の間を掃除するなんて奴がいたら「あいつバカじゃないの、異常だよ」ってなってたと思う。だから僕なんか、そんなことするくらいなら歯がボロボロになったほうがいいやって思います。でも現実にはそれが普通になっている。範囲が拡がっているわけです。
 現状の犯罪や精神異常だって、これらと同じ側面があるんです。でも、専門家はそういうことを考えないでさぼっているわけ。さぼらないで正常の範囲を拡げて考えてくれないとね。専門家が言わないと、法律のほうが強いですから。

きのう書いた計画停電による東京の交通事情についてもそうですが、「現行の正常の範囲から、ちょっとでも外れたら、それは異常だと言って済ませた気になってる」という感覚は、疑ってみることもごく普通だと思うんです。うちこはたまたま「物理的に乗るだけ人を乗せる乗り物」を旅行中に見てきたので「ふだんの感覚を疑う(信じない)」ということをしてみたのですが、後に出てくる「糸ようじ」もまったくそうですね。ジュリア・ロバーツが火をつけた後の浸透がすごい。「禊ぎたい」古来の文化にバチッとはまっちゃった。

<65ページ 「仕事」ってなんだ? より>
 ええと、ほら、僕らの世代の人たちで、ちょっと左翼っ気のある人なんかだと、「労働は大切だ」って言うでしょう? そうすると、その極まるところがどうなるかっていうと、清く貧しくっていう思想になっていくわけです。
 清貧の思想、遊び心は持たない、ぜいたくもしない ── どうしてもそうなるんですよ。
 何でこいつら、こういうこと言うんだろうって思いますね。普通の人がぜいたくして、いい洋服着たりうまいもの食ったりっていう、そのテーマがなくなっちゃったら、歴史の半分がおもしろくねえってことになっちゃうんですよ。
 あと、いわゆるボランティアっていう、ただで奉仕するんだっていう、あれも好きじゃありません。
 働いている人たちに清く貧しくを求めるんじゃなくて、指導者のほうが低くなきゃいけないってことでね。そういうことでなきゃ、ばかばかしいでしょ。
 ボランティアとか福祉とかは、やめたほうがいいとあからさまには言わないけど、そういうふうに思っているわけ。「労働が人間の価値だ」みたいなこと言っても、ウソだっていうことでね。

これは、この部分をピックアップしたときと今の世の中の状況があまりに違っていて、いまは一時的に節電がここでいう「清貧の思想」みたいになっているのだけど、電気は流れるもの(物理的に溜められない)だから分配の流れを見直してフローさせながら、いいときも悪いときも感じていこう、ということにはまだなっていない気がするんですね。「さしあたってガマンだ!」という一直線なことというのは、長くは続けられないと思う。「円」にする前提でみんなでつくっていかないと。
あと、「指導者のほうが低くなきゃ」というのは、仕事の場面でよくそう思う。視野が広い人が遊び心を持って仕事をフローさせる環境を作るには、高いところからだけでは見えないはずなんです。

<97ページ 「正義」ってなんだ? より>
 例えば、なんで日本は戦争に負けたんだろうかってことを考えてみると、原因のひとつに、こういうことがあったと思うんですよ。
 それは、アメリカの兵隊には、「平時と同じ」部分があったからじゃないかなと。実際に戦っている以外の時は、何でもないように、いつもの楽しみやら、いつもと同じことをやっているように思えたんですね。
 こりゃあ、かなわないはずだって。ものすごい「ゆとり」があるように見えるわけですから。
 日本のほうは、そのまったく逆で、ゆとりなんか何もないっていうか、あっちゃいけないみたいな状況になってましたよね。髪の毛にパーマかけるのはやめろ、みたいなことですよね。ふざけてるんじゃねえか、この大事な時にって。
 自分だけがストイックな方向に突き進んでいくぶんにはかまわないんですけど、突き詰めていけばいくほど、他人がそうじゃないことが気にくわねえってのが拡大していきましてね。そのうち、こりゃかなわねえってことになるわけですよ。

この「あっちゃいけない」なこと、緊張と弛緩のバランスが悪いと思うこと、よくあります。ヨガの場面でも「他人がそうじゃないことが気にくわねえ」というのはまったくこれ取り扱いずらいエゴだったりします。特にいまの、自分も含めた日本のヨギ。でも「エクササイズとして効用を感じている」ってのはその人の中でいま起こっていることであって「それをヨガと思うな」とかいって目くじら立てちゃうのはやっぱりイタイですよ。どうにもね。ユーモアがないと。

<125ページ 「宗教」ってなんだ? より>
 それじゃあ、スプーン曲げはどうなんだっていえば、あり得ると思っているんだけど、どうしてスプーンじゃなきゃいけないのかなあ(笑)。手元にあって便利だってことかなあ、とか思いますけどね。

うちこもこれ、子どもの頃そう思っていました。平たい包丁がベローン、のほうがインパクトあるのに、と。そのときは子どもながらに「包丁だと曲がったときに明日マジで困るからだ」と結論付けていました。子どもが真似したら危ないね。でも子どもはそんなこと考えない。

<136ページ 「戦争」ってなんだ? より>
人は「自分は、このようにちゃんとしたことを考えているんだ」と強く思えば思うほど、周りの他人が自分と同じように考えていなかったり、全然別のことを考えていたりすると、それが癪にさわってしょうがなくなる、ということでね……。
 でも、それはやっぱりダメなんですよ。真剣に考える自分の隣の人が、テレビのお笑いに夢中になっていたり、遊んでいたりするってことが許せなくなってくるっていうのは、間違っているんです。

これ、今ささるなぁ。すごく。きょう道場で先輩がボソッと「なんかさ、お笑い番組とか見たくなる」とつぶやいて、みんなうなずいてた。「まーでも今はどんなネタでも、その視点で見たら叩く材料があるからね。つっこみどころ満載でしょ。逆につっこめないものがお笑いか、ってことになっちゃうし」なんて話をしました。

<140ページ 「日本国憲法」ってなんだ? より>
 だけど、現在、核兵器を行使するってことは、つまり、精神的に異常のある人が、道を歩いている人を不意に刺し殺しちゃったということと同じで、これはもう……どうしようもない。世の中には、もちろん普通にあり得ないことが起こることはあるけれども、それを想定してとか、それを根拠として何かを考えることはあまり妥当じゃない。つまり、通常の生活では、正常な人間同士で物事を考えているのと同じように、異常な振る舞いに対して、それを考慮した上で何か対策を考えるっていうのは、それ自体がおかしいって思いますね。ですから、国防でも、正常感覚だったら、核兵器を持つことはあるだろうけど、それを使うことはない。今の段階では、世界中、どこであっても不可能だと思います。


(中略)


 そうすると、日本の国防は、今の憲法でも攻め込まれた時にそれに応戦する自衛権ということで、消極的な意味での国防ですけど、十分、成り立つわけですね。


(中略)


 だから、消極的な意味での国防は、今のままでも十分に成り立つし、もっと積極的な国防を求めるのであれば、核を持っている国に減らさせることを、積極的に国連に提案する。今までは、核を持っている国に、持ってない国が「無くせよ」ってことを意気地がなくて、ちゃんと言えなかったんですよ。僕は、これを実行させるのが、いちばん積極的な国防だと思いますね。

吉本氏は日本国憲法はすごい、ということをこの紹介の前段で語っています。うちこもインドが核を持った話を本で読んだときにすごく不思議な感じがして、「ポチっとな」は絶対ありえないと考える国なんじゃないの? インド・・・。ゼロかイチかでイチ選んだの?! という不思議。異常な振る舞いに対して、それを考慮した上で何か対策を考える」ということをあたりまえにしていないというのは、やっぱり自然なことだ。
一方で、やられて苦しんだものを自ら持つのか? という、サムライ精神的な自問もあったりするのかな、とも思ったりする。

<158ページ 「家族」ってなんだ? より>
 ガマンをして結婚生活が壊れなかったというのは、別に立派なことでもなんでもありません。むしろ、お互いに「そんなんじゃイヤだ」とか「また違う相手とやってくさ」を繰り返していくほうが正直というか、本当なんだと思いますね。間違った選択だったと、しまったと思ったときにガマンして耐え忍んでやっていくというのは「ひとつのやり方」にしかすぎないわけですから。

執着することもしないことも楽しむ、宇野千代さんみたいなことをおっしゃる。
ガマンしないことも同等に扱う。吉本節のなかに一貫性が見える部分。

<172ページ 「素質」ってなんだ? より>
素質とか才能とか天才とかっていうことが問題になってくるのは、一丁前になって以降なんですね。けど、一丁前になる前だったら、素質も才能も関係ない。「やるかやらないか」です。そして、どんなに素質があっても、やらなきゃダメだってことですよね。

素質も才能も関係ない。「やるかやらないか」。ってのは、本当にそう思う。攻略する資格とかそういうのってのはやっぱり、それなりの受け皿しかないように思うんです。見える証書を求めるのもへんな話。

<200ページ 「性」ってなんだ? より>
結局、性についてなんらかの年齢を定めるみたいなことで、唯一、区別できるのは、その時代時代によって、女系優位であったか男系優位であったかっていうこととか、地域によって女系か男系かっていうことくらいだと思うんですね。現在において、制約みたいなものは、全然無効であって通らないってことになってるように思いますしね。

うちこはセクハラの定義とかもよくわからないと思っていて、たとえば女性がそういうことを訴えたときに、その人にとって男女雇用が均等じゃない前提ってことになってることをもっとハッキリ言ってもらわないとなぁ、「普遍的なこと」「当然でしょ」みたいに言われても、同調するには情報が足りないよ、と思ったりします。
付加価値になったり犯罪になったりして、性はとても取扱いにくいです。

<208ページ 「スポーツ」ってなんだ? より>
 引退しちゃいましたけど、僕は落合ってのは、王や長嶋とかよりはるかに上の人だろうって思ってるんです。王や長嶋が学生の時から優秀で、修練して名人、達人の領域になった選手だとしたら、落合ってのは何か、もっと違うことをしてきたような気がするんですよ。何となくなんですけど、物書きとしての自分が類推して、そう思っているんです。

数年前からですが、中日戦を観にいって監督が出てきたときに、その背中がもうすごく小さくて、この人はそのときどきの最善や全体最適を自分なりにいつも考えている人なんだな、と思います。選手のときは、選手一人の範囲での安定したパフォーマンスをシーズン単位で見た全体最適。練習メニューの多さは気休めじゃないのか、とかそういうことをずっといつも考えてきた人のように見えます。あれだけ特色がある人なのに、所属した組織も濃くて、多い。星野仙一氏が後半「プロデュース人生」に転向したのに対して、落合博満氏は「ずっとチューニング人生」という感じが、すごくヨガ的だと思ったりします。

<261ページ 「言葉」ってなんだ? より>
 ただね、町田町蔵町田康のパンクバンド時代の名前)っていう人が、パンクバンドの領域から学んだいいところっていうのがあると思うんです。だから、もし本人が「ロックやってるより、小説書いてるほうが高級だ」なんて思っていたらダメでしょうね。それだと「この程度の人だったらいくらでもいるよ」ということになっちゃいますから。
 パートで全然かまわないんです。読者として培ってきた「文学とはこうでこうで」なんて知識や認識は忘れて、例えば、理屈を二、三行書きましたっていうのを集めたっていいんだし、書く様式は自分の好きなやり方でいいんですよ。パートなんだから。現状よりももっと発展したものを書かなきゃいけない、なんてことはないんだから。
 七面倒な知識、教養のつまんねえ部分をあんまり憶えていると、「小説ヘタになるぞ」って、子供にも言ってますけどね。

大学の頃に本が好きな友達から貸してもらった「くっすん大黒」を読んで以来、何年も追いかけて読んでいたことがあって、3年前にこのブログでも一冊だけ「実録・外道の条件」というのを紹介したことがあります。若い世代の人には、エッセイなどはちょっと時代感というか、バブルのもう少し前の感じとかが映像で浮かんでこないと読みにくいかなと思うものもありますが、この人のいらだちの根拠はいつも一貫していて、面白い。なにかの本で「ルー・リードみたいなおばちゃんが」という表現をしていて、爆笑してしまったことがある。日常の中にある「それってよっぽどロックだわ」という瞬間の切り取り方とか、とっても好きです。

<308ページ 病院からもどってきて より>
 リハビリ担当の人から「はい、手を伸ばしてそれを取って」「はい、体をこうして」なんて言われてやるようなものは、もう「よせやい」と思ってしまうんです。
 年寄りで足腰が弱い人は、そういう段階でやる気がしなくなって、そのところで死んじゃうって人が、だいたい三分の一ぐらいはいるらしいんですね。それでもう、たしかに、イヤになっちゃいますよ。
「そんなサーカス訓練みたいなことを、言われてハイハイやれるか」とイヤになっちゃうということを、リハビリ担当の人はなかなか理解してくれません。
 こんなことをまともにやっていられるかと思いはじめると、どんどん、意志と体の動きが分離してくるんです。それだから動けなくなります。
 それを病院のほうでも推察して、何とかうまく、何も考えないでもパッと体が動いたとか歩いたとか、そういうように自然に動けるような具体的なことを言ってくれればいいのになぁと思うんだけど、それは言ってくれません。そういうふうに訓練されていないんです。
 看護婦さんも医者も昔から専門なのに、何を年寄りがイヤがっているのかについて、疑問を感じてないです。

「どんどん、意志と体の動きが分離してくるんです。それだから動けなくなります。」というところ、すごくよくわかるんですよね。「意思して動かそう」と思っている人のヨガがどんどん研ぎ澄まされていくのと同じことで。だからこそ「意思して」がないものはしょうがないんだから「何も考えないでもパッ」ってのを考えるのがプロなんじゃねーかと。うちこはここを読みながら、いろいろ考えたいことがわいてきちゃったりしました。

<323ページ 病院からもどってきて より>
 病院の人たちが、いいことしてくれていることはわかっています。善意だというのもわかっています。勤めに熱心だというのもわかっています。だけど違うよなというときに、どうすればいいんだというと、結局は、おしり出しているしかないじゃないか、となります。つまり、落ちこぼれると、その分だけ自由が手に入るんです。

おしり出してると、看護婦さんと距離がとれる、と(笑)。すてきな人だなぁ。


息抜きにしてはずいぶん長くなりましたが、久しぶりに「ああ面白かった!」と爽快に読み終えました。「こうあるべきだ」ではなく「なんかこれヘンだと思うんだよね」という違和感を「大多数の妄信」と同等に扱える、「話せる友達」にすすめたくなる、そんな本でした。

悪人正機 (新潮文庫)
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新潮社
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