うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

日本辺境論 内田樹 著

ベストセラー作家といえるであろうこの本の著者さんのことを、この本をヨガ仲間が貸してくれるまで知りませんでした。
合気道を長年やっている著者さんが、大学教授として、評論家として有名になって書かれた本です。このかたの理論の根底には「丹田」があることを、ちゃんと読んだらヨギのみなさんはすぐわかると思うのですが、現代社会への投げかけ方が今どきの本の文体で、そこがヨギには難解に映るかもしれない。
なのであえて、「ヨギとしてこう読んだよ」と宣言してから紹介したい。そんな気持ちになる本でした。最後に紹介する『「機」の思想』の章は、完全にヨガ本です。


この本は、「とにかく要素が多い」というのがひとつの特徴です。なので、要点がとらえにくいという印象を抱く人が多いかもしれない。でも根底に「腹」があることがわかれば、ぜんぶがつながります。

なので今回は、完全にヨギ向けにページ順序を少し並び替えて感想を書きます。120%ヨギ仕様。はじめの紹介は「終わりに」からです。

<249ページ 終わりに より>
 本文でも触れた、岸田秀の「外的自己・内的自己」論は近代日本人に取り憑いた「狂気」を鮮やかに分析したものです。『9条どうでしょう』の論考を書いたときに、私は岸田理論を踏まえて、「狂気を病むことによって日本人はどういう疾病利益を得たか?」という問題を立ててみました。そして、この狂気は、戦後日本に、差し引き勘定で相当の利得をもたらしたという結論に達しました。
 なるほど、「病むことによって利益を得る」ということもあるのか。でも、そのような複雑な手続きは、それなりの成功体験の蓄積がなければできないことです。このような「佯狂(ようきょう・狂ったふりをする)」戦略を日本人はいったいいつから、どういう経緯で採用し、どういう経験を通じてそれに熟達するようになったのか。それについて考えてみました。
 たしかに、「面従腹背」というのは私たちの得意芸の一つです。「担ぐ御輿は軽い方がいい」と言い放ったキングメーカーもかついていました。外来の権威にとりあえず平伏して、その非対称的な関係から引き出せる限りの利益を引き出す。これはあるいは日本人が洗練させたユニークな生存戦略なのかも知れない。ネガティヴな言い方をすれば「辺境人にかけられた呪い」ということになるでしょうけど、一つの社会集団が長期にわたって採用している生存戦略である以上、「欠点だらけ」ということはあっても「欠点だけ」ということはあるまい。欠点を補うだけの利点が何かあるに違いない。そういう視点からこの小論を書くことになりました。

以前、香山リカさんの『「私はうつ」と言いたがる人たち』という本の感想を書きましたが、そこで引用した「25ページ 一億総うつ病化の時代」の箇所と繋がります。「疾病利益」というメンタリティと「生存戦略」こそ、戦後の日本の象徴的な側面であるというこの指摘に深くうなずきました。



そして、ここからはまずこの著者さんのおもしろい特徴として「予測される批判についての本書の原則的立場」にはじめに言及している点というのがあるので、紹介します。

<6ページ はじめに より>
 この本もそうです。「お掃除本」ですので、とりあえず「足元のゴミを拾う」ところから始める。一つ拾ったら、目に入った次のゴミを拾う。最初のゴミが空き缶で、次のゴミが段ボール箱で、というときに「拾い方に体系性がない」とか「サイズを揃えてもってこい」とか言われても困ります。そういうことを言うのは掃除をしたことのない人間です。



<10ページ はじめに より>
 以上が予測される批判についての本書の原則的立場であります。つまり、どのような批判にも耳を貸す気がないと言っているわけですね(態度が悪いなぁ)。でも、さきほどから言っているように、この仕事はボランティアで「どぶさらい」をやっているようなものですから、行きずりの人に懐手で「どぶさらいの手つきが悪い」とか言われたくないです。

こういいたくなる気持ちは、ネット社会の現代ならでは。最後の比喩は、座布団200枚モノ。




ここから本編に入りますが、この本は100ページの前後を境界に、「分析」「提案」に分かれます。この切り替えが、クエンティン・タランティーノ監督の映画「フロム・ダスク・ティル・ドーン」並にすごい。この映画を観たことがある人しかわからないと思うのと、いい映画かというと「切り替え」のインパクトのみが見どころと言ってもいいような映画なので比喩に使おうか迷ったのですが、そうですね……他の例をあげるすると、植木等の「ハイそれまでヨ」くらいの切り替えです。


まずは「分析」の領域から。

<26ページ 日本人はきょろきょろする より>
丸山(眞男)が言っているのは日本文化の古層に「超歴史的に変わらないもの」があるということではありません。そうではなくて、日本文化そのものはめまぐるしく変化するのだけど、変化する仕方は変化しないということなのです。

「変化する仕方は変化しない」。先を読んでいけばわかってきます。


<43ページ 他国との比較でしか自国を語れない より>
 おのれ思想と行動の一貫性よりも、場の親密性を優先させる態度、とりあえず「長いものに巻かれ」てみせ、その受動的なありようを恭順と親しみのメッセージとして差し出す態度、これこそは丸山眞男が「超国家主義の心理」として定式化したものでした。

「恭順と親しみのメッセージ」に恐怖しなくなったら、悟ったか腐ったかのどっちかですね。


<82ページ 明治人にとって「日本は中華」だった より>
「私は被害者です」という自己申告だけではメッセージの理論性を基礎づけることができません。「私たちは人間としてさらに向上しなければならない」という、一歩踏み込んだメッセージを発しうるためには、被害事実だけでなく、あるべき世界についてのヴィジョンが必要です。自分の経験を素材にして、自分の言葉で編み上げた、自前の世界戦略が必要です。けれども、私たちにはそれがない。

「それを言っちゃァ、おしまいよ」みたいな分析が続くのですが、ちゃんと100ページ以降に提案がありますから、お待ちくださいね。


<88ページ 日本人が日本人でなくなるとき より>
 幕末と明治末年では、国際情勢について、一般国民がアクセスし得た情報量には天地の隔たりがあります。にもかかわらず、幕末におては状況判断を過(あやま)たなかった日本人が、明治末年には状況判断を過った。とすれば、その理由を情報量の多寡で説明することはできない。説明しようとすれば、国民たちは幕末において日本が直面していた状況は理解できたが、日露戦争に日本が直面していた状況は理解できなかったという言い方になる。この二つの歴史的局面では何が違っていたのか。
 相違点は本質的には一つしかありません。幕末の日本人に要求されていたのは「世界標準にキャッチアップすること」であり、それに対して、明治末年の日本人に要求されたのは「世界基準を追い抜くこと」だったということ。これだけです。
 日本人は後発者の立場から効率よく先行の成功例を模倣するときには卓越した能力を発揮するけれども、先行者の立場から他国を領導することが問題になると思考停止に陥る。ほとんど脊髄反射的に思考が停止する。あたかも、そのようなことを日本人はしてはならないと言うかのように。

ここは膝を打つ! 情報がありすぎると、どうなるか。集中できないんだよね。


<96ページ とことん辺境で行こう より>
「教化的」というのは、コンテンツの問題ではありません。コンテンツ的には日本が世界に伝えた有益な情報はいくらでもあります。学術や技術の領域では最先端を誇る業績は枚挙に暇がないほどあります。でも、今問題にしているのは有用なコンテンツを発信したかどうかではありません。マーケットを独占できたかどうかではありません。教化的にふるまうことができたかどうかです。
「教化」というのは、「諸君は私のメッセージを理解せねばならない。なぜなら、諸君が私のメッセージを理解せねばならない理由を諸君はまだ知らないが、私はすでに知っているからである」というアドバンテージを主張できるものだけがないすることです。人々がまだ知らないことを、すでに知っている人間にだけできることです。そして、私たちはこういう言葉を口にすることができない。どれほどつよく望んでも口にすることができない。
 私たちにできるのは「私は正しい。というのは、すでに定められた世界基準に照らせばこれが正しいからである」という言い方だけです。それ以外の文型えは「私の正しさ」について語ることができない。

「教化的」というのはヨガを行じているみなさんなら、「そういう言いかたがあったか!」と思う人も多いんじゃないかな。うちこの師匠が言う「いいからやれ。昔の暇なインド人が考えたんだから」というのと同じ話だなぁ。



章の区切りとしては非常に中途半端で、101ページから「辺境人の学びは、効率がいい」という章に変わるのですが、わたし的には100ページが境界です。植木等さんの曲で言えば「……てなこと言われてその気になって♪」からが、以下です。

<100ページ とことん辺境で行こう より>
 私たちに世界標準の制定力がないのは、私たちが発信するメッセージに意味や有用性が不足しているからではありません。「保証人」を外部の上位者につい求めてしまうからです。外部に、「正しさ」を包括的に保証する誰かがいるというのは「弟子」の発想であり、「辺境人」の発想です。そして、それはもう私たちの血肉となっている。どうすることもできない。私はそう思っています。千五百年前からそうなんですから。ですから、私の書いていることは「日本人の悪口」ではありません。この欠点を何とかしろと言っているわけではありません。私が「他国との比較」をしているのは、「よそはこうだが、日本は違う。だから日本をよそに合わせて標準化しよう」という話をするためではありません。私は、こうなったらとことん辺境で行こうではないかというご提案をしたいのです。

『「弟子」の発想』という言葉を見た瞬間、「それ、まさに自分……」と思いました。先日「ベスト・キッド(リメイク・ジャッキー版)」を絶賛しまくったわたしの因子。


<127ページ 起源からの遅れ より>
私たちは国のあるべき方向を決めるときにも、師弟関係に準拠していることを行っている。それは師弟関係というものがきわめてすぐれた(おそらく考え得る最高の)「学習装置」であると日本人がどこかで信じているからです。
 もし、ものを学ぼうとしている人に、「就いて学ぶべき師を正しく選択できるように、師たちを客観的に適正に格付けできる予備的能力」を要求したらどうなるでしょう。そんな予備的能力を要求されたら、私たちは一生学び始めることはできないでしょう。学び始めるためには、「なんだかわからないけど、この人についていこう」という清水の舞台から飛び降りるような覚悟が必要だからです。そして、この予備的な考査抜きで、いきなり「清水の舞台から飛び降りる覚悟」を持つことについては、私たち日本人はどうやら例外的な才能に恵まれている。

インドにいたときに思いましたが、日本人は西洋人ほどに「どの師につくか」、という種類の話をしない気がします。逆の言い方をすると、妙に西洋人に人気の先生がいたりする。日本人の、それも縁と思って「とりあえずしごかれてみる」というこだわりのなさや素直さは、例外的な才能なのか。


<135ページ 『武士道』を読む より>
 「(前略)武士道は『或るものに対して或るもの』という報酬の主義を排斥する……。」
 ここは非常に重要なことが書かれています。武士道は「或るものに対して或るもの」という報酬の主義を排斥する。新渡戸はたしかにそう書いています。努力と報酬の間に相関があることが確実に予見せらるることは武士道に反する、そう言っているのです。これは日本文化の深層に届く洞見だと私は思います。

これが、中途半端に欧米の成果報酬型とブレンドされると面倒なんだわ。


<140ページ 無防備に開放する日本人 より>
すべての人には等しくルールを決める権利が分与されている。だから、私の決めたルールが他のルールを退けて多数派の同意を得れば、それが世界標準になる。そう考えるのが「英米式」なんです。「みんなが英米式でやっているから英米式でやりましょう」というのは「日本式」なんです。

ここ、わかる……。リスクヘッジの凡例を探すのとか(前例はOK)、まったく意味がわからない。あなたのリスクですが……と思う。


<148ページ 学びの極意 より>
 張良の逸話の奥深いところは、黄石公が張良に兵法極意を伝える気なんかまるでなく、たまたま沓を落としていた場合でも(その蓋然性はかなり高いのです)、張良は極意を会得できたという点にあります。メッセージのコンテンツが「ゼロ」でも、「これはメッセージだ」という受信者側の読み込みさえあれば、学びは起動する。
 この逆説は私たち日本人にはよくわかります。気の利いた中学生でもわかる。でも、この程度の逆説なら「気の利いた中学生でもわかる」のは世界でもかなり例外的な文化圏においてである、ということはわきまえておいた方がいいと思います。
 私たち日本人は学ぶことについて世界でもっとも効率のいい装置を開発した国民です。私はそう思っています。

学び、起動しちゃいますねぇ。別に苦行萌えなわけではないのですが。
そしてここでは落語の「こんにゃく問答」も引用されています。例がいい。なんとなく、おちゃめなんですよね。全般。
参考サイト「落語あらすじ事典 千字寄席 蒟蒻問答(こんにゃくもんどう)



そしてここからは『「機」の思想』という章に入ります。

<174ページ 武道的な「天下無敵」の意味 より>
 私が現在このような状態(歯が痛かったり、腹回りがだぶついてきたり、血圧が上がったりしている状態)にあることを「かくあるべき状態からの逸脱」ととらえず、「まあ『こんなもの』でしょう」と涼しく受け容れる。それもまた「敵を作らない」マインドの一つのかたちです。老いや病や痛みを「私」の外部にあって「私」を攻撃するものととらえず、「私」の一部であり、つねに「私」とともに生きるものと考える。純粋状態の、ベスト・コンディションの「私」がもともと存在していて、それが「敵」の侵入や関与や妨害によって機能不全に陥っている。それゆえ、敵を特定し、排除しさえすれば原初の清浄さと健全さが回復される。そう考える人の世界は「敵」で満たされます。そういう人にとっては、やがてすれ違う人も、触れるものも、吸う空気も、食べるものも、すべてが潜在的な「敵」になる。「敵」の介入のせいで、「私」の可動域が制限され、活動の選択肢が限定された状態として「私」の現状を説明する人は、つねに「敵」に囲まれています。そして、そのとき「私」にとっての理想状態とは、この世界に「私」以外に誰もいないこと。絶対的孤独のうちに引きこもることを意味することになる。
 相手が斬りつけてくるので、それを避けなければいけないという条件を仮に想定します。選択できる動線は限定されます。このときに「自分には無限の選択肢があったのだが、攻撃の入力があったせいで、選択肢が限定された」というふうに考えるのが「敵を作る」ことです。それい対して、「無限の選択肢」などというものは仮想的なものにすぎず、とりあえず目の前にある限定された選択肢、制約された可動域こそが現実のすべてであり、それと折り合ってゆく以外に生きる道はないと考えるのが「敵を作らない」ことです。そう思うことで、時間意識が変成する。
「敵を作らない」ということを今は「可動域」とか「動線の選択」という空間的な用語法で説明しましたけれど、
敵を作らない」ことのもっとも重要な目標は実は時間意識の変成なのです。

もうここは解説いらないね。たまたま「可動域」とか「動線の選択」という用語を使ってくれちゃったので、ヨギには異常にしっくりきちゃう。「制約された可動域こそが現実のすべて」=「あるがまま」です。「時間意識の変成」=「諸行無常」です。


このあとに続く「辺境人は日本語と共に」については先日紹介したので、そちらを参照にしてください。


この本を読んで思ったのですが、わたしはヨガをやっていなかったら、この著者さんのおっしゃっていること、意味が半分もわからなかったように思うんです。もともと本は読むほうだったし日本語が上手と言われたりするのですが、それでもよくわからなかったと思う。
この本がベストセラーになるほど読解力の高い人が多くて連鎖したのか、タイトルと帯のキャッチで売れたのかはよくわかりませんが、周りの人を見渡して、「本当に全部読んでベストセラー。納得」と思っている人がどのくらいいるのか知りたくなりました。


日本辺境論 (新潮新書)
内田 樹
新潮社
売り上げランキング: 2179
おすすめ度の平均: 3.5
5 日本人のある地点からの眺め
4 日本人の立ち位置は?
2 がっかりしました。
3 好みが分かれる本、というか著者
5 レビューで言われるほどヒドクないですよ

★おまけ:内田樹さんの「本棚リンク集」を作りました。いまのあなたにグッとくる一冊を見つけてください。