うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

陰翳礼讃 谷崎潤一郎 著

これは仕事仲間のりつこが貸してくれました。
「陰翳礼讃」のほか、「懶惰の説(字は正確には「小束頁」)」「恋愛及び色情」「客ぎらい」「旅のいろいろ」「厠のいろいろ」という随筆が6つ入っています。
この本は、昭和8年(1933年)の作品。年代が気になったのは、明治39年1906年)に書かれた岡倉天心の「茶の本」(名作!)にくらべて、西洋様式に対する「侵略されてる意識」が増えているように感じたから。27年間の間に、ぐぁああああっと来たんでしょうね。西洋式の波が。


吉行淳之介さんの巻末解説には、こんな記載がありました。

 さまざまな新しい事柄にたいして人間は、最初は違和感があてもしだいに馴れてしまうことが大部分である。日本式便所か水洗便所か、金属か木材か、ガラスか紙か、というようなことは、馴れればそれほどおこだわることではない。しかし一方、『日本人のはどんなに白くとも、白い中に微かな翳りがある』、と肌の色について谷崎さんも書いているように、そういう体質はおのずから「陰翳」にたいして敏感に感応するようにできている、とおもう。つまり東洋人と西洋人との本質的な相違に眼が届いていて、それぞれの美点欠点を冷静に点検してゆく。
「陰翳礼讃」といっても、やたらに東洋の美をたたえているだけではなく、白人コンプレックスからきた失点回復の文章でもない。

そう。コンプレックスではないの。たしかに、それぞれの美点欠点を冷静に点検してゆく感じ。
意外とアートな側面を持つうちこちゃんたら、今日は芸術的な内観視点になるのかしら? と思いきや・・・。
どんなインスピレーションを受けたかと言うと・・・


りつこにとってはバイブル的な本らしいから、あとで怒られそうだけど
これはあくまで、うちこの要約ね。
この本で淡々と陰翳が礼讃、点検された結果、
出てきた答え。


やっぱ日本人なら、ヘアヌードよりパンチラのほうが萌えるっス


というような。
そんな印象を持ちました。



そんなこんなを思いつつ、メモしたのは「陰翳礼讃」「懶惰の説」「恋愛及び色情」のなかの数箇所。なかでも特に、「懶惰の説」にはヨギ的に興味深い内容でした。随筆ごとに、いきますね。


■陰翳礼讃

<28ページ より>
日本の料理は食うものではなくて見るものだと云われるが、こう云う場合、私は見るものである以上に瞑想するものであると云おう。そうしてそれは、闇にまたたく蝋燭の灯と漆の器とが合奏する無言の音楽の作用なのである。

瞑想という言葉がなんどか出てきます。「瞑想」「冥想」両方出てきますが、使い分けの意向は見受けられず。

<48ページ より>
つまりわれわれの祖先は、女と云うものを蒔絵や螺鈿の器と同じく、闇とは切っても切れないものとして、出来るだけ全体を蔭へ沈めてしまうようにし、長い袂や長い裳裾で手足を隈の中に包み、或る一箇所、首だけを際立たせるようにしたのである。なるほど、あの均斉を缺いた平べったい胴体は、西洋婦人のそれに比べれば醜いであろう。しかしわれわれは見えないものを考えるには及ばぬ。見えないものは無いものであるとする。強いてその醜さを見ようとする者は、茶室の床の間へ百燭光の伝統を電燈を向けるのと同じく、そこにある美を自ら追い遣ってしまうのである。

いろんな書き方をされているんですが、日本の女の裸は明るいところでは見るに絶えない。と結局はおっしゃっている。なんか、「やっぱヘアヌードみたいんじゃーん」といった様子がどうにも漏れでているように、読みながら思ってしまったんですねぇ。



■懶惰の説

<70ページ より>
 思うにこう云う不潔と不規律とは、いつの時代を問わず支那人には免るべからざる通有性であって、どんな進歩した科学的設備が移入されようとも、一とたび彼等の経営に委ねられれば、忽ちそれが支那人独特の「物臭さ」を帯び、折角の近代的な突鋭な利器が東洋風な鈍重な物に化してしまう。清潔と整頓とを文化の第一条件とするアメリカ人なぞの目からは、許すべからざる無精とも横着とも見られるであろうが、支那人自身はちっとやそっとの不都合はあっても、用さえ足りれば済まして置くと云った風な、伝統的な性癖を容易に改める様子もない。そして時に依っては、西洋人の極端な規則ずくめと神経質をうるさがるような気味合いも見える。欧米流の礼儀作法として云えば事毎に反感を寄せ、自分の国の風習なら一夫多妻の制度をさえ是認していた晩年の辜鴻銘翁なぞは、定めしこんな事象に対しても相当の意見があったであろう。
そう云えば印度のタゴール翁、ガンジー氏などは何んと云うであろうか。彼等の国も物臭さにおいてはあえて支那に引けを取らないようであるが。

ここは、おもしろかったぁ。
「用さえ足りれば済まして置くと云った風な」中国のミッキーマウスとか。とかとか。
インドも引けを取ってないとか、とかとか(笑)。

<72ページ より>
 とにかくこの「物臭さ」、「億劫がり」は東洋人の特色であって、私は仮りにこれを「東洋的懶惰」と名づける。
 ところでこう云う気風は、佛教や老荘の無為の思想、「怠け者の哲学」に影響されているのであろうが、実はそんな「思想」などに関係なく、もっと卑近な日常生活の諸相に行き渡っているのであって、その根ざしは案外に深く、われわれの気候風土体質等に胚胎し、佛教や老荘の哲学は寧ろそれらの環境が逆に生み出したものであると考える方が自然に近い。

「怠け者の哲学」。いいねぇ! 気持ちいい!
「いやー、俺らの国、四季ってのがあって、どうせ流れるし」ってね。この視点での書き方は、新しい。

<75ページ>
「東洋人の精神的若しくは道徳的と云うのは果して何を意味するか。東洋人は浮世を捨てて山の中へ隠遁し、独り冥想に耽っているようなのを聖人と云い、高潔の士と云う。しかし西洋ではそんな人間を聖人だとも高潔の士だとも思わない、それは一種のエゴイストに過ぎない。われわれは勇ましく街頭に出で、病める者に薬餌を与え、貧しき者に物資を恵み、社会一般の幸福を増進するために身を犠牲にして働く人を、真の道徳家であると云い、そう云う仕事を精神的の事業と云うのだ」── と、大体こう云う趣意のことをジョン・デュウイが書いていたのを読んだことがあるが、これが西洋における一般の考え方の基準、── 常識であるとすれば、恐らく「怠ける」と云うこと、「何もしないでいる」と云うことは、彼等の眼から見て悪徳中の悪徳であろう。われわれ東洋人といえども、「怠けること」が「働くこと」より精神的だと極め込んでいる訳ではないから、このアメリカの哲学者の説に正面から反対する気はないし、そう堂々と開き直って来られると挨拶のしようにも困るのだが、いったい欧米人の「社会のために身を犠牲にして働く」と云うのはどんな場合を指すのだろうか。

「社会一般の幸福を増進すること」「じっと内省すること」の、カルマへのアプローチの仕方の違いについての考察と思うと、とても奥が深い。


■恋愛及び色情

<114ページ>
 たしか徳川家康であったかと思うが、嫁は夫の寝床の中にいつまでも止まっていてはいけない、房事の後はなるべく早く自分の床へ戻るようにするのが、長く夫に愛される秘訣であると云う意味を、婦女のたしなみとして諭しているのを何かの本で読んだことがある。これはあくどいことを嫌う日本人の性質をほどよく呑み込んだ教えであって、家康の如き絶倫な肉体と精神力を持っていた人でも、なおこの言葉があるかと思うと、ちょっと意外な気がしないでもない。

うちこは「あくどいこと」の意味がつかめなかったのですが、波の角度の話でしょうか。いずれにしても、そこから波長がずれるような侵略スタイルをとるか、シンクロするシークエンスでいくか。そういうのは、文章で学ぶなら五木寛之先生の本で学ぶとよいですね。(ここだけは、ヨギのうちこちゃんではなく「うちこの中のオッサン」が書いてます)

<138ページ>
 色気は本来無意識のものであるから、生れつきそれが備わった人と、そうでない人とがあって、柄にない者がいくら色気を出そうと努めても、ただいやらしく不自然になるばかりである。器量がよくって色気のない人もあれば、その反対に、顔は醜いが、声音とか、皮膚の色とか、体つきとかに、不思議に色気のある人がある。西洋でも一人一人の女に就いて見ればそう云う区別はあるに違いないけれども、化粧法や愛情の表現法があまり技巧的であり、挑発的であるために、色気の効果が消されてしまっている場合が多い。

そう。あきらめが肝心。うちこはこの辺、潔いぞぉ(笑。いや、ここは泣くとこだ)。


なんだか今日は感想が「うちこのダブルジェンダー暴露」な感じになってしまいましたが、この本は読みながら「自分のなかのオス」が出てくる不思議な本でした。男子が読むと、どうなのかしら。
ヨギは、だんだん性別(この意識もエゴなんですよね結局)がなくなっていくのねぇ。不思議。

陰翳礼讃 (中公文庫)
陰翳礼讃 (中公文庫)
posted with amazlet at 10.03.13
谷崎 潤一郎
中央公論社
売り上げランキング: 1391
おすすめ度の平均: 4.5
5 家なんか建てちゃう人は一度読んでみては
4 リビングに蛍光灯
5 今こそ読まれるべき本
5 デザイン関係者必読
5 日本人として