うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

センセイの鞄  川上弘美 著

わたしはこれまで、「下心」というものの意味がよくわからずに生きてきました。
いまひとつ「努力」との区別がわからない。結果を出したければ知恵を働かせたり工夫をするもの。毎回その境界がいまひとつつかめない。
それを「下心」と思うのは、相手の主張を受け入れるまでの間に当たり前に起こる葛藤では? 自分の純粋性を盛ってない? と、迷うことばかりでした。


でも、この小説を読んだら認識が変わりました。わたしはこれまで、「下心ではないもの」をよく観察していなかったのでした。

 

この「センセイの鞄」の世界は、ゆっくりゆっくり、人の心をほどきます。

これを優しさと言うべきか。センセイの場合、優しみは公平であろうとする精神から出(い)ずるように見えた。わたしに優しくしよう、というのではなく、わたしの意見に先入観なく耳を傾けよう、という教師的態度から優しさが生まれてくる。ただ優しくされることよりも、これは数段気持ちのいいことだった。
(「センセイの鞄」より)

そうか。下心というのは先入観がなければ成り立たない。ここを読んだ時に、ふとそう思いました。
国語の先生の思想がすでに脳内に侵食して「出ずる」とモノローグする主人公のように、わたしもセンセイの態度を通じて、それを当たり前にやろうとする人間の矜持のようなものを感じ、ジーンときました。


わたしは70歳近いセンセイよりもまだ女性側のほうに立場が近いせいか、彼女の振り返りは自分のことのようで、少しつらくもありました。

小学生のころ、わたしはずいぶんと大人だった。しかし中学、高校、と時間が進むにつれて、はんたいに大人でなくなっていった。さらに時間がたつと、すっかり子供じみた人間になってしまった。時間と仲よくできない質(たち)なのかもしれない。
(「梅雨の蕾」より)

こんなことを思う主人公は、それでも相手を傷つけないように注意を払っていて、じゅうぶん大人。

 嫌悪感を押し殺すほどわきまえず、気持ち悪いところを保留できる人は、わたしから見ると大人です。

センセイの笑いの奥に、妙なものが漂っていた。小さな蟻をつぶしてよろこぶ少年の目の奥にあるようなもの。
(「二十二個の星」より)

よくよく考えるとこれは誰にでもある性質。そこに気づいている主人公はけっして子供じゃないし、誰かに甘えたい気持ちに自覚的で、むしろ大人すぎるくらいに見えます。

 

この小説は、誰かを大切に思う気持ちを拠り所とする物語に参加できなかった人が参加できそうになるまでの、穏やかなスロープのような役割を果たす、読むことそのものがエクササイズのような、わたしにとってはそういう気がする本でした。
後半の、特に公園の場面の前後の展開がとてもすてきで、これまで感じたことのない心の奥の感覚が刺激されたのだけど、たぶんそれは疼きのようなもの。大人の恋のおそろしさを知りました。もちろんこれは、いい意味でのおそろしさです。