うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

三島由紀夫の「革命哲学としての陽明学」を読んだら、ヨガを学びながら感じてきた違和感の背景が見えた

先日、昭和45年に『諸君!』に掲載された「革命哲学としての陽明学」という三島由紀夫作の、講座の書き起こしのような文章を読みました。

三島由紀夫はものすごく昔の人に感じるけれど、それは自分が生まれた時にはこの世にいなかったからで、ご長寿ならまだ生きていてもおかしくない年齢(生きていれば今95歳)。亡くなったころの文章を読むと、これがどうにもおもしろい昭和のマッチョなおじさんです。

その雰囲気は自分が新卒で入社した頃の会社の中年男性に受け継がれていた雰囲気に通じるもので、肌観として多少は知っているだけに完全には嫌いになれない、そういう雰囲気。


思い起こせば90年代。わたしが新卒で就職した会社は隔週週休二日制で、階段の踊り場に喫煙所がありました。会社の中年男性は新卒社員にとって親戚のおじさんのような存在。年の近い先輩男性にちょっかいを出されても雑談まじりに中間管理職の人に「嫌がっていたと言ってほしい」とお願いすれば、うまいこと険悪にならずに事はおさまる。そういうバランサーとして頼りになる雰囲気がありました。

当時は大学生が就活の時点でセクハラを受けるなんてことも今より少なかったんじゃないかな。現在よりもネットを介した個のつながりがないぶん、リアルな人間社会の統御が機能していた部分もありました。

 


さて。今日は、そんな時代を生きてきたわたしがかねてよりなんかヘンな感じ…と思っていたことがすっきりしたという話を長々と書きます。この話は長くなります。

今日ここで紹介するテキスト「革命哲学としての陽明学」は「行動学入門」という文庫本に収録されています(亡くなる三か月前の口述内容)。この本にはほかにもエッセイが多数収録されていて、今だったら炎上するようなことがたくさん書いてあります。いま多くの人が嫌う昭和がそこにある。


いまわたし、さらっと「多くの人」と書きました。問題はここなんですよね…。

「多く」は日々感じるムードでしかない。いまこうしてブログを書いている時点での感覚としては「デジタル・ネイティブ世代+もう少し上の世代(いま20代くらいまで)はめっちゃ嫌がるだろうなぁ~」という想像を勝手にしているだけ。

そうなると実数・日本人の中の構成比としてはたぶん多くない。デジタル・ネイティブ世代は生まれた年代で括れるから話が早いけれど、どさくさにまぎれて40代後半の自分も片足、そこに入ろうとしている。厚かましくてごめんなさい! でも片足入れさせて! そんなわたしのような者まで入れても、それでも国民の半数まではいかないんじゃないか。

 

ここまで真面目に考えると妄想架空マジョリティに逃げることをあきらめて「わたしの嫌いな昭和」をいよいよ明言しなければならなくなるのだけど、これがすごく難しい。考えるたびに自分のなかにある「どうしても仲間入りしたくない、仲間に見られたくないあのダサさ」の定義ができずに悶絶することになるから。

わたしはそんな悶絶を、なんともう15年以上やっているのです。いつからかって、ヨガを始めた時からです。わたしのなかにある「わたしの避けたい昭和のヨガ」と「懐かしのレトロ昭和ヨガ」の境界を言語化できずにここまできました。でも常に疑問はあり、距離を置いてきました。

 

そしてこのたび、大きなヒントとなるこのテキスト「革命哲学としての陽明学」を読み、こ、こ、これは…(ガクガクブルブル…)と、真犯人を知らされるかのように謎が解けました。「わたしの避けたい昭和のヨガ」の「避けたい」の理由が見えてドキドキしました。

三島由紀夫はなんでもお見通しなのか。なんかこわい。こわいと思ったのはこれが二回目で、一回目については前に書きました。

三島由紀夫はこういう感覚をどこまでもお見通しなのよねー。ほんとやだわー。もー。

 

 

さて。

やっとまとまりのある内容に入ります。

そこに何が書いてあったか。大塩平八郎のことが書いてありました。名前の文字列だけは受験のために覚えていたけど、何をした人なのかはまったく知らない大塩平八郎

そんなわたしのように雑に生きてきた人間がどうやったらそこにたどり着けるかと言ったら、偶然にしかたどり着けません。事故みたいなものです。そしてそこでなにを知ったか。あまり語られない「中間の歴史」の解説がありました。ものすごくわかりにくいけれど、ものすごく大切なこと。

 

 

扉が開かれてしまいました。納得へ向かう意識の招集にスイッチが入りました。ヨガの神秘的な力について熱くなつかしそうに語る人に向き合うときの、あの葛藤の火種はこれであったか。そういうことか!

わたしは昭和のヨガの偉人伝を年配の方から聞いているとき、それを目のあたりにしてきたと経験を語る人に対して羨ましい気持ちが起こらないのです。合宿などを案内されても興味がわかない。

なんでなのか、自分でもわかりませんでした。

 

 

どうやらわたしの身心に、そのノリについていける要素がもう空気的DNAとして残っていなかった。親世代がすでに戦後という人はたぶんわたしと似た感覚なんじゃないかなと思います。

このことを理解するための歴史の折り返し地点にいる人物が、大塩平八郎三島由紀夫はその空気的DNAの変遷をわかりやすく語っています。こんな歴史の授業を受けたかった!

 

 
大塩平八郎は江戸時代後期の人で『洗心洞箚記』という書物のなかで「身の死するを恨まず、心の死するを恨む」と主張されていたそうです。三島由紀夫はこれが過激な行動に通じるものだと言い、そこから現代に目を向け、戦後のメンタルのありさまについて指摘します。

われわれは心の死にやすい時代に生きている。しかも平均年齢は年々延びていき、ともすると日本には、平八郎とは反対に、「心の死するを恐れず、ただただ身の死するを恐れる」という人が無数にふえていくことが想像される。肉体の延命は精神の延命と同一に論じられないのである。われわれの戦後民主主義が立脚している人命尊重のヒューマニズムは、ひたすら肉体の安全無事を主張して、魂や精神の生死を問わないのである。(文春文庫「行動学入門」214ページより)

今年起きた世界の混乱とパンデミックを経ていまリアルに思うのは、この指摘が自分の生きる環境にあてはまるように感じられるということ。恐るべき普遍性。

 

 

さて。だいじな話はここからです。
大塩平八郎の江戸時代から昭和にいたるまでの間には明治時代と大正時代があります。この二つの時代にこの精神がどのように引き継がれ、のちに有害視されていったか。

三島由紀夫はこのテキストの冒頭でその概要を話していて、全体を読むと日本の精神史(精神の矯正史、チューニングのプロセス)がわかる。最後まで読んでから冒頭を読むと、なるほどとなる。

箇条書きにすると、こんなことが書いてあります。

  • 朱子学の一分派ともいわれる陽明学は、昭和45年の今となっては名前だけが知られているだけ
  • 政治家や現実的な行動家にとって陽明学は哲学としてメリットがなくなった
  • 陽明学的知的環境は乃木大将の死とともに終わった
  • 現在の日本は老人支配。大正教養主義で育った世代が知的指導層を占める
  • 作家の実名の一例は志賀直哉武者小路実篤氏。ほかに経済学者・教育者の小泉信三
  • 上記の人々の青年期に、陽明学は意識的に忌避された
  • 昭和初年にいたって陽明学的潮流は地下に潜流し過激な右翼思潮の温床となった
  • 大正知識人はますますこれを嫌い、有害視し後輩に伝えまいとした
  • 陽明学はインテリにとって触れるべからずものとなった

 

こうやって説明してもらえると、夏目漱石の小説「こころ」の主人公(「先生」という人物)のセリフに登場する乃木大将の存在イメージも感覚的に理解しやすくなります。

じゃないと、あの「先生」という人物の言うことは、ぶらぶらしてるだけのインテリ気取りの中年が急に軍人のスピリットを持ち出して便乗して、なんかイタい。という印象で終わる。

教育者でもあった乃木希典の存在をどこか心に抱いている「先生」という人物の土台のなさが、やっと少しずつ見えてきました。

 

 

夏目漱石は明治時代の人。大塩平八郎は江戸時代の人です。その中間にも重大な精神DNAの歴史があります。

 大塩平八郎の死は、前にも言ったように天保八年三月のことであったが、それから四十年を経た、西郷南州の西南の役における死に思い及ぶと、西郷の生涯が再び陽明学の不思議な反知性主義と行動主義によって貫かれていることにわれわれは気づく。西郷の『手抄言志録』によれば、その第二十一には、死を恐れるのは生まれてからのちに生ずる情であって、肉体があればこそ死を恐れるの心が生じる。そして死を恐れないのは生まれる前の性質であって、肉体を離れるとき初めてこの死の性質をみることができる。したがって、人は死を恐れるという気持のうちに死を恐れないという真理を発見しなければならない。それは人間がその生前の本性に帰ることである、という意味のことをいっている。(216ページより)

ここで三島由紀夫の言う「不思議な反知性主義と行動主義」という要約の鮮やかさがこれまたこわい(釣りがうまい)。

このテキストは途中に簡潔な陽明学の要約があり、その部分を読んでいる時点では、陽明学の「知行合一説」ってヨガの教えにどさくさに紛れて入り込んできて、なんか違和感あるやつじゃないか…なんて感じで読み流していたのですが、それよりも「致良知説」のほうに地雷がありました。

 先に言った陽明学のいくつかの特色のうち、大塩がもっとも強調したのは、「帰太虚」である。この、太虚に帰するという説を主張したのは支那の哲学者では張横渠であったが、大塩自身は中江藤樹がすでにこれを言ったあとを受けて、太虚の説こそは良知に至る「致良知」の必然的な論理的帰結である主張している。

 


 (中略)

 (この中略部分の文章は惹きつけられる魅力があるので、ぜひ本で読んでください)

 


 その太虚とは何であるか。人の心は太虚と同じであり、心と太虚は二つのものではない。また、心の外にある虚は、すなわちわが心の本体である。かくて、この太虚は世界の実在である。 この説は世界の実在はすなわちわれであるという点で、ウパニシャッドアートマンとはなはだ相近づいてくる。(212ページより)

ヨガの実践から興味を持ってインド思想を学ぶつもりが、いつのまにか陽明学の別室に連れて行かれ、気がつけばかつての軍人的闘魂を注入されて、なんかすごいやる気でた! みたいなことが、そら起こる。

「わたしの嫌いな昭和のヨガ」へのあの拒絶反応は、もしかしたらこの架空の別室へ誘われることへの警告だったのだろうか。・・・なんて大げさに考えるまでもなく、たぶん、きっとこんな感じです。

 


 なんか用語やふるまいや視覚から入るものが右翼っぽくて、

 仲間入りは遠慮したいんだよな…。

 


ずいぶん日本の伝統をディスる(不敬)じゃないかという書き方をしてしまったけれど、この悶絶をあなたはわかってくれますか。視覚デザインと意識のデザインはシンクロするものと、わたしはそのように捉えるところがあるのです。

なつかしみと同時に感じるアレはなんなのか。これはカルトっぽいから参加したくないというのとはちょっと違うのです。オウム真理教はむしろ左翼っぽかったように思います。そっちじゃないのです。わたくし、今日はたいへん微妙な境界の話をしております。

 

 

インターネットが普及して20年。インドへ個人旅行をする人が増え、書物を原文や英訳で読む人も増え、現在は日本語で導かれる教えに対して検証できる材料が揃ってきています。わたしがヨガを学んでいる現在は、そういう時代です。

そのうえで共通点と違いを通して自分を思考の種を見つけていく、そういう方法をとり続けようともがいてきたわたしに、この三島由紀夫の解説はガツンと効きました。

 

わたしは8年ほど前から、夏目漱石の書物に登場する当時のこじれた人の考えに、いま自分がヨーガを求める気持ちとの共通点を見てきました。その理由も、この三島由紀夫による文学史をからめた歴史の振りかえりで謎が解けました。

わたしは7年前に、こんなことを書いています。

この背景も今日の話と同じです。

本物のヨガ・本格的なヨガ(あるいはヨーガ)と言いながら、その発し手は陽明学と似た要素をヨガに見出して飛びついたということはないだろうか。あの人たちは、若い世代にそれを伝える前に、自身の振り返りをどこまで済ませているだろうか。

 

自分を高めてくれると信じたい教えに対して「精神誘導史」「思想のパッケージング史」という視点を忘れずに学ぶというのは、とても重要なことです。

 

 

▼今日引用したテキストはこの本に収録されています