うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

本「いのちのレッスン」/映画「鬼婆」(1964年)「ふくろう」(2003年) 新藤兼人監督

自分が70代、80代、90代になったときって、いったいどんな精神状態なんだろう。

「こうありたい」と口にする人はいるけれど、そういうんじゃなくて。

わたしは誰にでも言えるようなことを聞きたいわけじゃない。そういうことじゃなくて、今後もこれまでと同じように社会が変化し続けるなかで生き残った先の自分の精神の話。

 

 

中勘助48歳の頃に、『提婆達多』という小説で70歳を過ぎた人の心情を書いています。これがまあどうにもひどい描かれかたで、それを読んだときに、正直だなと思いまいした。

加齢と成熟を直列繋ぎでイメージするのは、わたしの持っている希望的観測によるバイアス。薄々そう思っていたところに、中勘助先生が目を開かせてくれました。

そんな矢先に、90代になってから90代の心境を自分の言葉で語っている人がいると知り、さっそく本を読みました。映画監督・新藤兼人さんのエッセイにそれが綴られているというのです。

 

 *  *  *

 

今日の話は書いたらものすごく長文になりました。これでも、かなり経緯を削っています。

書ききれなかった経緯は音声にしました。(補足音声です)

 

 *  *  *

 

(以下からが今日の本題です)

 

 

この本を読んでみたら、なんと95歳で現在のマインドを詳らかにお話されていました。

新藤監督は海外でも評価が高い人。動画サイトで英語で名前を検索したら、86歳のときにインタビューに答えている映像がありました。この本に書かれていることと半分以上重なっています。

 

その流暢な話しぶりと話の構築のうまさ、わかりやすさ、内省した言葉の鋭さに驚きました。

思い出話がほとんどなのに、個人の心はずっとリアルタイムで自己を耕し続けています。時間や因果をしっかり認識しながら、老いが全く重く見えません。これは驚異的。

 

 

新藤監督の考えかたはシンプルです。

先輩で尊敬していた溝口健二監督も小津安二郎監督も58歳、60歳で亡くなったけど、自分は長生きをした。だから作品がたくさんになったと淡々と話されています。

「結果的に長生きをした。生きてるから撮ってる。書いてる。生きてるからやっている」と言いながら、「うまく自殺でもできればいいのかもしれないけれど、そうならないから生きてる」という感覚も並列で語られていて、こんなふうに欲と葛藤を認めながら生きていけるなんて、言語化できているなんて。人生そのものを生きている人だと思いました。

 

新藤監督は脚本家でもあり、人物像を外側から作り上げることに対する自己認識が明確です。

自分が老人にならないうちに書いていた老人のイメージと比較をする話に引き込まれました。

「若い頃は、老人は物分りがよく安定していて、そんな老人を大切にする若年者が孝行する物語がよくあったけれど、自分が80歳を超えてみたら老人というのはそんなものではなくて、やり尽くしていないと欲がたくさんあってやろうとするし、我欲が突っ張ってくるし、復讐しようとするし、穏やかじゃない。間も無く死ぬのにやり残していることがあるのが老人」と話します。

いまは内側から実物を見ることができる年齢になりました、というスタンス。

 

 

そしてそれをジャッジしない。そこが驚異なんですよね・・・。

「身体は衰えたり頭は弱ってきても、思いだけは旺盛になってきている。そういうものが自分を支えている」と話す口ぶりが、そこに自虐も見栄もない姿が、全身が「撮る人」「語る人」のスタンスで、自分の人生の物語に主観と客観がずっとある。

 

その姿に心を打たれ、この本を読んだ後に、監督がまたああいうのを撮りたいと話されていた映画『鬼婆』を観ました。驚きました。なんと、中心にあるものが中勘助の『犬』と同じなのです。

生と性と欲が真正面から描かれていました。

 

 

映画『鬼婆』(1969年)

ひと目で岡本太郎さんのものとわかる題字に、太鼓と叫びだけの音楽。しょっぱなから前衛アートごりごりな雰囲気で目耳が離せなくなるのですが、カテゴリ的にはホラー扱いで、本当にどんどん怖くなります。

この映画は最初に見はじめたのが夜だったのですが、あまりに怖いので後半は昼間に見ました。

 

 

そして何より、やはりお話の内容です。このナマナマしさが、中勘助的。

観終わった後には妙な生気が湧いてきて、生きてる! って気持ちになる。

「理性も知性もまあ必要なのだとして、ところであなたの生きている感覚はどんなもんなの?」と、真っ直ぐ問われる感じ。

 

 

本に、このように書かれていました。

「鬼婆」はわたしがとても好きな作品である。五十代のあの自信にあふれた力強さは、消え失せた。あの時期がわが人生の頂点だったのか。しかし、わたしには「鬼婆」からさらに積み重ねてきた経験と技術がある。たっぷりの挫折もある。

「鬼婆」を超える作品を撮りたい。わたしはどこまでもヨクが深い。

(映像は時空を超える より)

 

 性は生命の根源である、と信じるようになった。つまり、生きることは、性そのものを生きることであるという思想をもつようになった。だから、親と子のつながり、男と女の葛藤、すべて性の角度から見つめた。

(からだのなかを通過したものを信じる より)

 

 人の心には、さまざまな弱さが醜さが渦巻いている。それを認めたうえで、真面目に純粋に生きたい。九十五歳になった現在でも、わたしはそうつとめている。向上心を失いたくない。

(真面目にやっていればいい より)

 

 煩悩を抱えるわたしではあるが、最後の最後まで素朴でありたいと思う。誠実でありたい、と願うのである。(「愛」とは誠実なこと より)

 

この本を読むと、『鬼婆』を観ないわけにはいかなくなります。

観てよかった!

そしてもうひとつ、本のなかで言及されていた映画を観ました。

 

 

映画『ふくろう』(2003年)

 

この映画は観てみると現代版『鬼婆』のようでありつつ、題材はまったく別。だけど似ていると感じます。本にこう書かれていました。

 九十歳のときに、「ふくろう」を撮った。じつはこのドラマの発想は、三十年ほど前からあたためていたものだ。一九七四(昭和四十九)年、六十二歳のわたしは、東北地方の出稼ぎ労働者の悲劇を扱った「わが道」を作った。この作品のシナリオを書くにあたり、青森県の十和田に出かけたわたしは、地方の新聞記者に集ってもらい座談会をやった。

 そこで出稼ぎとは別のこととして、開拓村の話が出た。ある開拓村が全滅になって、あとに残った母と娘が売春をしていて、そこにダム建設の人がお客にきていた。ダムが完成したら労働者は去り、その親子もどこかへ行ってしまった、という話を、新聞記者の一人がしたのである。この話にわたしはとても興味をそそられた。

(三十年来の怒り より)

この話を読むと、ここからああいうコメディタッチの映画を作るのか・・・と驚きます。ずっとひとつの家のセットの中で展開されていて、まるでよく練られた近代史コント。

戦争で土地を捨てて満州へ行き、帰る場所がないうえに与えられた場所でまた屈辱を味わう、そういう人生を別の物語に乗せてこんなふうにするのか、という驚きがありました。

 

 

さらにこんなことも書かれていました。

 九十歳のときに撮った映画「ふくろう」では、二十三歳のころを思い出して、美術と衣装をやってみた。この作品は母と娘が性を武器にたくましく生きるドラマだが、極力シンプルにした美術も衣装も上出来だったと思っている。

(わたしの恋する絵 より)

冒頭で話の背景を説明しつつ、あとはその衣装・セットのままでいくことで、役者の表情に集中できました。

途中から、ああ、だからその話はもうあそこで終わらせておいて、ここからが生きるガッツとプライドに触れていく本題だったんだ・・・とわかっていく。

この構成を考えて形にする決断力と実行力がすごい。

 

 

いのちのレッスン

 

この本は文字が大きくてそんなに厚くないのだけど、著者が生きた時代のことが様々な角度で書かれています。

いま動画とスマホの普及でテレビがダメになったと言われるのと同じように、テレビの普及で映画が斜陽産業になったという見かたに対し、「多くの映画人はタガがはずれて、ベテランという名のニセモノのプロ発生していた」と語り、そもそもダメになっていたと語ります。

序盤の時点で「じつは老人になると、メドになるものが少なくなる」という現実の見つめかたをされているのも印象的。

 

ネガティブな感情を抱いたときや、うまくいかないときにどう感じていたかも、こんなふうに語られたら前のめりで聞いてしまいます。

師と仰ぐ溝口健二監督のもとを会社の都合で離れて松竹へ引き取られることになったときに「それはいいじゃないですか。行ってください」と言われ、こんなふうに思ったそうです。

 溝口さんは「ぼくは才能のない人とはつきあいたくありません。そんなことをするとぼくの才能をとられてしまいますから」と公言している人だから、やっかい払いができた、と思っているのかな、と勘ぐったりした。

(クラシックからジャズに より)

ここから転籍先の制作環境の話に移っていくのですが、ブラックな環境から紳士が協力し合うホワイトな環境に転職してびっくり! という話がおもしろくて。

 

 

はじめは映画撮影所の美術部員で、その後シナリオを書きたくて模索する話も、当時の葛藤が短い言葉でスパッと説明されていて鮮やかです。

 江古田駅の近くの下宿のそばに日本画家が住んでいた。この先生のところへわたしは日本画の手ほどきを受けに通った。日本画家になるつもりはなかったが、何か具体的な技術に触れることで、わたしの不安がやわらぐかもしれない、と思ったのだ。

(わたしの恋する絵 より)

「具体的な技術に触れることで漠然とした不安がやわらぐことを期待する」って!!!  普段の思考の段階で子細に脳内で言語化できているから、年齢に関係なく、こういう言葉がスッと出てくるのでしょう。

 

観察力と、内面の再現のしかたを工夫する構成力、自分のなかで繰り返し内省するパワー、どれが欠けてもこうはいかない。

想像以上にすごい人なのでした。