うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

受容と条件

密教的カウンセリングの理論と実践
先日紹介したテキスト『密教的カウンセリングの理論と実践』(高野山真言宗切幡寺の藪崇史 師)のなかで、日々の自分の心のはたらきについて整理してもらえたように感じた部分を紹介します。
『「受容・無条件の肯定的配慮」の態度』という章にあったテキストです。これは、苦しみのからくり。


引用します

「子供らしくて良い」「素直だから好き」「男らしいから・女らしいから良い」等々は「条件付き尊重」と呼ばれています。無条件に受け入れる「受容」は、今ここでその相対する人のあるがままを受け止めることであって、「この様なことを実行したら・この様なことを守ったら〜信じられる・受け入れられる」というのも「その人の仏性・可能性を信じているが、今は受け入れることは出来ない。」と、いうことで条件付きの尊重であり「受容」とはいえないのであります。

自分に対しても人に対しても、「○○として」という条件づけをしていない瞬間のほうが少ないくらいじゃないかな。「人として」って、まるでよさげな人情フレーズだけど、ものすごいプレッシャーだ。


つづき

 更には「条件付き尊重」は「容認」や「是認」ということも含まれる。これは「容認・是認」の態度は、裏返すとそのまま「否認」や「拒否」となって現れやすくなってまいります。我々も気付かない内に自分の価値観の枠組みを通して、来談者の言動を見て判断し「もっともだ」「その通り」と同調することは「支持的態度」に共通しており、「受容」ではなく「容認」であり、会話が進むにつれ「よく気付けたね」「それは良い事だ」という発言を起こしかねないのであります。このことは逆に「価値観」が合わないときには「その件には納得できない」「それは良くないことだ」と否認してしまう流れを持つものなのです。

これはカウンセリング理論のテキストなので、このあとは『「容認・是認」はあくまで「こちら側の価値観に沿う条件」で来談者を認めている状態だ』という指摘に入っていくのですが、カウンセラーの態度の話はさておき、日々の自分のことに置き換えてみる。


自分の状態がいいとか悪いとか、そういう触れ幅に線を引くとするならば、「受容」と「容認」のあいだかもしれない。
世の中の「サービス」について考えるときの気持ち悪さの線も、ここにあるように思う。
この前提でサービスしますよ、ということにしないと回らないことなのだけど、それをなるべくいいたくないなぁ。という気持ち。なるべく「受容」と「容認」のあいだでふわっとしていたい。



社会生活を送っていく上では、「相手の条件」や「相手の前提」に対する想像力が、「受容」の準備運動のようなはたらきをする。
凡人は凡人なりに、いろいろな感情をもつという経験を糧にするしかない。
そういう意味で、自分の中のダークサイドを見つめることは、苦しいけれども、「純粋悪」というような、そういうものがあると感じます。「悪」を悪者にしない、というのは矛盾かな。エピソード3の深みは、きっとここだよね。



ヨガは一般的に「精神面への効用のイメージがよい」ものだから、悪い感情をひたすらに排除できることが効果のように語られることが多いけど、それがかえってなんだかカラリと吸い込めないときがある。ことさらに「いい」と語るまえに、「いまいましいことの定義をもっていた」ということを認めるプロセスをどう経ているか。
継続の秘訣は、ここにあるように思いました。


いままでもんやりと「避けられないプロセス」として認識していたことを可視化してもらったような、そんなテキストでした。