うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

偉くない「私」が一番自由 米原万里(著) 佐藤優(編集)

著者の残したさまざまな文章を、友人がセレクトしてフルコースのメニューに見立てて構成した本なのですが、なんと大学の卒業論文が収録されています。これがすごくおもしろくて、ニコライ・アレクセーエヴィッチ・ネクラーソフの作品を読みたくなりました。

 

よく経営者の愛読書のように紹介されているせいでなんとなく敬遠してきたドストエフスキーも、がぜん読みたくなりました。
ドストエフスキーはネクラーソフの愛人で元女優のパエナワにひと目惚れしていたのだけど、女性の側は「やせっぽちでチビで病的な顔色…(以下略)」と評していたそうで、だからこそモテない男の魂の叫びを描かせたらドストエフスキーはすごいのだと。

こういうのは絶対にデキる男性向けのビジネス雑誌では読めない解説。具体的にあげられていた作品「貧しき人々」「永遠の夫」を読んでみたくなりました。これまでマンガで要約した本でしか読めなかったドストエフスキーに、いよいよチャレンジできそうです。


『「反語法」の豊かな世界から』という対談のなかで発せられる以下の言葉も印象に残ります。

人間を商品として考えないところが、社会主義のいいところだと思います。

ほかの箇所でも、日本の教育を "教師も生徒も劣等感回避の原理で動いている" というふうに見ていて、教師も生徒もという見かたをしているところが冷静です。そこで利害関係が一致しちゃってるものを切り崩すのは、ほんとうにむずかしい。


『偉くない「私」が一番自由』という随筆で三つの詩を事例に挙げて解説される、「私」の言葉の存在の分解も興味深く、ネクラーソフの「私」の比較で出てくるA・フェートという詩人の「私」がタゴールの「私」と似ていてとても気になりました。自分が好きな人物・思想・表現の理由をこんなふうに説明できたら、例を探すのも楽しいだろうな。

 

最後にある「シェフからのご挨拶」で佐藤優さんがこんなことを書かれていました。

マルクス主義について米原さんと話しているうちに、私は自分の思考の鋳型の特殊性について意識した。

「思考の鋳型」に気づかせてくれる存在って、人でも人じゃなくても(本でも)いいのだけど、やっぱり対話から導き出されたときの感覚はずっと忘れないもの。


さまざまな立場を経験・観察し続けてきた人の頭のよさを見せつけられて、読みたい本がいっきに増えました。

 

偉くない「私」が一番自由 (文春文庫)

偉くない「私」が一番自由 (文春文庫)