今回の年末年始の旅行ではじめて、海外でもスマホでネット接続ができる状態にしてみました。
そうしたら見事に本を読む時間が減りました。単純なことでした。
ずっと外部とつながっているものに手が届く状態で旅をしていたら、本は読めません。
わたしは普段は電車の中とお風呂で本を読んでいます。電車に乗っているときにスマホはカバンの中に入っているし、お風呂にスマホは置きません。
ヨガの練習の帰りにカフェで1時間くらい読書をしたり勉強をすることもあります。すっきりとした頭のときは感度がポジティブなので、そうしています。
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今回は本を三冊持って旅に出ましたが、一冊しか読めませんでした。
これまでの旅でわたしの読書時間だった「高速バスの車内」「宿でのんびりする時間」に instagram で動画を作ったり、アップしたり、調べ物をしていました。
唯一読めた本は、成田空港へ向かう電車の中で読み始めてスイッチが入っていたもので、その先を続ける感じで読みました。国内にいるうちにその本の世界に半分入っていました。
その後、二冊のうちどちらかを選んで読み始めることができませんでした。
画像や動画で切り取る材料をうっすら意識して「見て見てー、今日わたしはこんなことをしています♪」という編集作業を脳内をやっていたら、本は読めません。
旅の間に読んだ本に、そんなわたしへの鋭い指摘が詰まっていました。
プルタルコスという人が書いたエッセイ『知りたがりについて』に、こんなことが書かれていました。
隣家に向かって開いている知りたがりの窓や通路を閉じ、自分の家の男部屋や女部屋、それに召使いの部屋への通路を開けること。こうして、「私はどこで道を誤ったか、私は何をなしたか、私は何を残したか」とめいめいが自分に問いかけることにすれば、知りたがりという性格も、無益でもなく悪意に毒されもしない対象を得ることになって、有用有益ということになるだろう。
ソクラテスは、空腹を感じてもいないのに食べたくなるような物や、咽喉が乾いてもいないのに飲みたくなるような物には用心しろ、とよく薦めているが、同じように、見もの聞きものにも注意して、自分が望んでもいないのに、我々を支配したり惹きつけたりするものを避けるべきなのである。
プルタルコスはざっくりA.D.40年代生まれくらいじゃないかとされている、ローマ皇帝・暴君ネロの時代の人です。
自分の中にある男性性の力・女性性の力、自分の意志に従って動いてくれる力に意識を向けることの大切さを説いています。
常時ネットに接続してスマホを手にしていたら、モンキー・マインドがあっちこっちへ、そりゃ行くのです。本も読めなくなります。
本を読んで、賢くなりたい。
わたしはこの気持ちにまっすぐに、素直になることにしました。
このくらいじゃないと、読めないんです。目的を明確にすること。
知りたがっているだけで意思が空っぽの『知りたがり』という性質について、プルスタルコスがおもしろおかしく教えてくれました。サンカルパとヴィカルパの講義のようでした。
おもしろい部分を、またいずれ紹介しますね。
旅の最後にホーチミンで素敵なブックカフェに入りました。
あ、いま良い時間を過ごしているな、と思える瞬間のしあわせを見直すきっかけになりました。