うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

あのこは貴族(映画)

以前友人がおもしろかったと言っていた小説の映画版を観ました。

わたしは東京に住んで25年以上になります。この映画に出てくる場所が、半分くらいわかります。

登場人物が自転車で移動しているあたりを、わたしも自転車で走ることがあります。

 

 

東京の中心部で毎日行動をしていた頃(=コロナ以前)、年に一度くらいは、静かに泣きながら歩いていたり電車に乗っている人を見ました。そして自分が泣いてしまったときは、見ず知らずの他人の困惑とやさしい気持ちを同時に受け取ることがありました。

「(事情は知らないけど)今日はなにか、大変だったんですね」という目を向けてくれる人がいる。いるのです。

 

 

—— 実は東京は同志の多い、あたたかい街です。

世代も性別も関係なく、そのときどきで、涙の意味を理解しようとしてくれる人がいる。見ず知らずの、ただその場に居合わせた人が静かに応援してくれる。それは、そうなってしまったときにだけ経験できることです。

 

 

この映画は、そういう「実は同志の多い、あたたかい街東京」が見事に描かれていて、しかもそれがわざとらしいヒューマン・ドラマではない形で実現されていました。

何度もお気に入りのシーンを再生しました。

 

 

華子さんは終盤で、たぶん三田か芝のあたりで一般人の使うビニール傘をもらって、銀座経由で勝鬨橋(かちどきばし)を渡り、勝どきか晴海の自宅へ帰っているのでしょう。

普段ならタクシーに乗るところを6キロくらい歩いて、まるで日本エレキテル連合の二人が演じるようなギャルたちと手を振りあう。ああいうことって、映画の世界だからと思うかもしれないけれど、ほんとうにあるんです。

深刻な考え事をしていたら、あのときの華子さんのように6キロくらいは呆然としたまま歩けてしまう、道路事情もやさしい東京。

 

 

そして地方出身者の視点では、富山県から出てきた美紀さんが、30代になっても学生時代に持っていたトートバッグを大切に使っていて、なんとなく大学の近くのエリアに住み続けていて、今も自転車に乗っている。ただこれだけの事実がべらぼうに泣けます。

毎日必死だと、馴染んでいるエリアに長く住んでしまうものです。東京の別のエリアに住んでみようと思うには、ものすごく強い、なにかポジティブな転機が必要です。

 

 

この映画で描かれていた時代(数年前)は、地方の町から出てきた人にはdocomoユーザーが多かったはずで、美紀さんはdocomo×iPhone。幸一郎さんはSoftbank×iPhone

そして華子さんは、キャリアの会社はどこかわからないけど、SONYAndroidを使っていました。彼女はむやみやたらに人と繋がる必要のない、むしろ繋がらないほうがよい生活をしています。

このへんの選択のディテールが沁みます。

 

 

美紀さんは紆余曲折を経て、自分の感覚を信じて生きています。

「ずっとそう言って欲しかった気がするから」という理由で物事を決めていく場面では、なんともいえない気持ちになりました。良くも悪くも、帰れる場所があるわけじゃない。だから心に従う。

 

 

コメディの要素も見逃せません。思いがけず「お雛様展のチケット」と言われた時に美紀さんの首が斜め下に出てくる角度が絶妙すぎて、ここだけ何度も巻き戻して爆笑しながら観ました。

 

 

わたしはこの映画を観るまで、東京はあたたかい街と感じていることを、漠然と秘めてきました。

非人情な場所に住んでいて大変ですねと言いたい人の存在を内在化させ、その想像を裏切ることは言わないようにしてきました。

 

だけど、この映画に出てくる逸子さんが「そんな前提で演じる必要って、ある?」と、根本的なところをひっくり返してくれました。

実は非人情ではないのだけど、非人情だということにしておく。実は心が通じ合っているのだけど、通じ合っていないことにしておく。こういう日々の様々な "気持ちのやりくり" を可視化する、ものすごい映画でした。

終盤は、人を信じる力が湧いてくるときって、こういう瞬間だよなぁ(そして、その逆も)というシーンの連続で、感情の筋トレ度がすごい。

観たあとはいい意味で疲れて、よく眠れます。レンタル中、毎晩寝る前に観てました。