うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

失敗のこと。ゆるされたいという気持ちが大きくなるときの、あの猛スピードのこと

先々月と先月に、仕事のスケジュール管理でミスをしました。少し落ち着いてから、その取り返せなさに落ち込んだ瞬間の心を観察しました。


ミスをすると、それがただのうっかりであればあるほど、気づいた瞬間に「ゆるされたい」という気持ちが猛スピードで拡大します。落ち込みの色が濃く感じるのは、この "速さ" への驚きであるように思います。自分で自分にびっくりしている。


この感じは、社会に出て働き始めた20代の頃と今では微妙に違っています。「ゆるされたい」の対象が仕事を任せてくれた人や組織だけではないし、その対象が ”秩序” としか言いようのない、漠然としたものであることがわかっているから。


こういうのって若いときだけのものじゃないんだなぁ〜、というのは、年齢を重ねてみないとわからないこと。そして、わたしはまだまだ生きそうです。

そこで、現時点での自分の内面を掘り下げてみました。 ”秩序” に対する、漠然とした ”何らかの感情” が気になって。

 


わたしはこの ”何らかの感情” に、これまでは罪悪感というワードを充ててきました。そうしておくと対外的にも自分自身に対しても収まりがよいのです。自分が謙虚な人間に感じられて好都合なことこの上ない。ほかにも、畏怖とか学びとか教えとか言っておけば、思っておけば便利なんです。
でもね、「ほんと?」とも思うのです。だって罪悪じゃないし、わたしがしたのは凡ミスです。

 


心はそんなに単純ではなくて、罪悪感を持ったことにしてへりくだる無責任さやズルさも認識しています。自分の中にある客観の視点は、そう簡単に逃げを忘れさせてはくれません。
若い頃は自分が成長していない状態を自分で認めたくない、そういう意欲的なエゴの構成比が高かったのですが、いまはそういう気持ちが少ない状態で仕事をしています。(あのエゴを買い戻せないものだろうかと思うほど)

 

 

 ミスはするし、”それ” は起こる。

 

 

いまは世の中がマイルドになって、昭和や平成のような「もうお前にこの仕事があると思うなよ!」みたいなことは言われないわけですが(業界によってはまだあるのでしょうけど)、それでも、あせる心は変わらない。周囲の人が気にして助けてくれようとすると、涙が出ちゃうのも変わらない。

お詫びも気持ちの切り替えも、そこは経験でやるべきことをやるしかないことを理解して、リカバリーのための行動をします。
でも

 

 

 「ゆるされたい」という気持ちが
  猛スピードで拡大するときの「火」の力

 

 

このパワーって、ほんとうに不思議。自然の力と同じなんですよね。
火の性質が変わるわけではない。摩擦が起これば、火は起こる。

 

いまのこの感じは、河川の中洲で燃えている火を、川のあっち側(若い頃の感覚)とこっち側(今の感覚)から見ている感じで、見え方が違っているのだけど、じーっと寄ってみてみると、燃える火の存在・力は変わりません。
以前は自分自身がそのまま燃えている気がしたけれど、少しずつその時々のパターンで距離を置けるようになってきました。
いきなりすこーんと悟ったような状態で上にぐわーっと上昇して俯瞰したのではなく、少しずつ見える範囲が広がってきて、「あれ? ここは中洲か」と気づいて、あっちへ渡ってみたりこっちへ渡ってみたりして、こうなった。この感じを得るまでに、ものすごく年月がかかっています。


あれは12年前のこと。「心の火事は、誰が消す?」とヨガの先生から問われて以来、わたしは自分の心の火事を「観る」「考える」ようになりました。

 


こうやって年月を経ながら何度も繰り返していくと、少しずつ、自分の失敗も秩序のなかのひとつと思えるようになってきました。
火が燃えているときは毎回つらいのだけど、誰かに慰めてもらったり雑に発散しても消えないものへの対処法は、わたしの場合、結局こうなる。
咀嚼にそれなりに時間をかけるほうが、内臓(心の深部)への負担を減らせます。


「人間だもの」と言いながらエイッと呑み込む手伝いをするのは第三者の仕事で、わたしがやるべき咀嚼を相田みつを氏が代わりにやってくれるわけじゃない。あれは咀嚼し終えたときに顎が痛い状態で目にして、それを終わらせるためのやさしい言葉。


いつまでも失敗は無くならないけれど、経験を吸収できるように歯と顎を使っていかなくちゃね。