うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

中味と形式 夏目漱石(明治四十四年八月堺において述)


和歌山での講演「現代日本の開化」と同じ頃に、堺で行なわれた講演ログ。これもネットで読めます
「視点」や「スタンス」について語られているのですが、相変わらず実践主義的な教えです。
毎回楽しみな、冒頭のつかみ。今回もさりげない。

高原君はしきりに聴衆諸君に向って厭になったら遠慮なく途中で御帰りなさいと云われたようですが私は厭になっても是非聴いていていただきたいので、その代り高原君ほど長くはやりません。

グルジによるどなたかの結婚式スピーチ、聞いてみたい〜。



すべて政治家なり文学者なりあるいは実業家なりを比較する場合に誰より誰の方が偉いとか優っているとか云って、一概に上下の区別を立てようとするのはたいていの場合においてその道に暗い素人のやる事であります。専門の智識が豊かでよく事情が精しく分っていると、そう手短かに纏めた批評を頭の中に貯えて安心する必要もなく、また批評をしようとすれば複雑な関係が頭に明暸に出てくるからなかなか「甲より乙が偉い」という簡潔な形式によって判断が浮んで来ないのであります。

よそのヨガに対して「あれは本物のヨガではない」とかいっちゃうと、その道に暗いことがバレちゃうよ。



物の内容を知り尽した人間、中味の内に生息している人間はそれほど形式に拘泥しないし、また無理な形式を喜ばない傾きがあるが、門外漢になると中味が分らなくってもとにかく形式だけは知りたがる、そうしてその形式がいかにその物を現すに不適当であっても何でも構わずに一種の智識として尊重すると云う事になるのであります。

ものすごい勢いで「一種の智識として尊重」されるような支持って、あるねぇ。



彼ら学者にはすべてを統一したいという念が強いために、出来得る限り何でもかでも統一しようとあせる結果、また学者の常態として冷然たる傍観者の地位に立つ場合が多いため、ただ形式だけの統一で中味の統一にも何にもならない纏め方かたをして得意になる事も少なくないのは争うべからざる事実であると私は断言したいのです。

こういうのすべて統一できると便利だよね、といって開発されたものはたいてい使わない。



自(みず)から活動しているものはその活動の形式が明かに自分の頭に纏って出て来ないかも知れない代りに、観察者の態度を維持しがちの学者のように表面上の矛盾などを無理に纏めようとする弊害には陥る憂いがない。

表面上の矛盾を無理にまとめない、って、すごく大切なことなんだよね。



内容の変化に注意もなく頓着もなく、一定不変の型を立てて、そうしてその型はただ在来あるからという意味で、またその型を自分が好いているというだけで、そうして傍観者たる学者のような態度をもって、相手の生活の内容に自分が触れることなしに推していったならば危ない。

「変化」って、中で見るのと外で見るのはぜんぜんちがう。久しぶりに会って外から見て「変わった」と言ってくる人には、ほんとうに注意したほうがいい。



あんまりまじめにコメントするととても愚痴っぽくなってしまいそうだけど、この講演ではエリートや学者にありがちな形式イナゴっぷりへのツッコミを容赦なくやっている。観察は必要だが実践もしろと、「私の個人主義」と同じポリシーが貫かれています。
わたしはインド哲学の先生に「いいか、ヨーガの学びは everything new experience だぞ」と何度も言われてこの表現がとても気に入っているのだけど、漱石グルジの講義もいいわぁ。

中味と形式
中味と形式
posted with amazlet at 14.02.05
(2012-09-27)


夏目漱石の本・映画などの感想まとめはこちら