うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ちょっとお願い。の「ちょっと」はむずかしい

「ちょっとお願い」されることについて、翻訳家の友人の話を聞いていたらその喩えが実に具体的でわかりやすかった。
わたしもたまになにかを「ちょっとお願い」されることはあるけれど、彼女ほどのトホホ感は味わったことがない。技能が明確なうえにオンラインで完結できてしまう「翻訳」となると、問題が鮮やかで、眼のくらむような話だった。
翻訳のできる人に送られてくる



 「ちょっとこの文章を見て欲しいのだけど」+「その文章」



という、ゆるい依頼? いや、依頼以前のなにかのメール。
「文字が商品の人って大変だわー」と思った。わたしは翻訳家ではないので、ここまでのことはない。




 カラオケでいきなり曲を入れて、「ちょっと歌って」って、歌手に言わないよねふつう。




いやほんと、そういう話なんだよね。わかりやすい喩えをありがとう。



わたしも頼まれごとがたまにあって、ほとんどはサクサク進むのだけど、たまに進まないものもある。何に対して違和感を感じるのか考えてみるのだけど、「親しき仲にも礼儀あり」というよりは、「巻き込み方に礼儀あり」というほうがしっくりいく。
おとなになると、慣れた間柄でいろいろ話が早くなることがあるけれど、話の早い人は「全体の中のどの部分の品質を引き上げたくて協力を頼んでいるのか」という目的の提示が明確だ。




 自身が引き上げたい何らかの状況やブランドに対して、
 自分と同じ愛情の傾け方は求めないが、
 品質をあげるために "だけ" 手を貸して欲しい。
 その上がる量や質は問わない。とにかく漠然と上げたい。




これが、いちばん戸惑う。
「同じ愛情は求めない」という意味で「ちょっとお願い」という言葉を使われても理解できない。
どんなことであれ、身体や頭をはたらかせるときは、愛情を注ぐから。
でね、その愛情って、なぜか枯渇しないのですよ。
太陽が照らす対象を選ばないように。




金額の要素も、あるにはあるけど、エネルギーが減るから「対価」があるわけじゃないんだよね。
お金の役割は、錘(おもり)ではなくて、むしろ、秤(はかり)のほうなんだろうな。




わたしは、人と協力してなにかをしたときの喜び中毒症のようなところがある。
失敗もいっぱいしてきたけれど、何度もやっていくことで「枯渇しないアイデアの泉」があることをやんわり信じられるようになってきた。
「自信」ではない。どちらかというと、「とても自然な、自分だけにあるわけではない、遍く存在する力」というほうが近い。それが「ない」と決めつけようがないことを知った感じが、理解されやすい形として便宜的に「自信」という単語に置き換えられているのだろうなと思う。
経験から身体が学んだことは、可視化できなくても交換できる時点で「喜び」がはじまるので、そこからうまくいくものはあれよあれよとうまく進む。よくある「なにげない雑談からはじまってこんなことになった」という成功事例は、ゆるくても「交換」はちゃんとなされている段取りを踏んでいる。




愛情を傾けるすべてのはたらきは、そもそも可視化できない。「ちょっと」なんて、「量」みたいな言葉はできるだけ使わないほうがいいんだろうな。
日本語って、そういうところが「ちょっと」おもしろいんですね。




「わたしに愛情はなくてもいいので、やってくんない?」というのは、むしろ主人と奴隷の関係に近い。
こういう微妙な、口に出したらいけずな感じになってしまう間柄の隙間を埋めるために、エネルギーを固有に可視化した「お金」というものがあるのだろう。
お金を汚いもののように扱うのは、この隙間が汚れていることを実は認識しているからではないだろうか。
そこがすっきりスカスカしていたら、「じゃ、ここお金で埋めときましょ」とドライにやれるし、そこから関係が始まってお金の換わりにそこを愛情で埋めるようになったりするのが、心に残るすてきなプロジェクトの典型的なパターンだったりする。



玄侑宗久さんの「釈迦に説法」を読んだとき、

周囲の冷淡さを非難する前に、自分が心から「助けて」と言ったかどうか、そちらのほうを先に気にすべき。(P33)

という指摘があった。
いいこと言うなぁと思っていたのだけど、翻訳家の友人の話は、この話とちょっと似ていてた。