うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

真贋 吉本隆明 著

友人が貸してくれた。よく同時期に同じ人の本を読んでいて、たまにしか会わないのだけど、会えば話が弾む仲間。
語りを文字にしたような文章で、法話を聞くようにイッキ読みした。
わたしには日々の心がけがなんとなくあって、行動指針というほど決め込んだものではないのだけど、自分なりの判断基準のようなものがある。同じように考えるところもあったし、自分でははっきりと具体的な言葉で考えるほどに明確化していなかった「それはなんだか、いやだからやめている」というようなことを、文字列で示されたような部分もあった。
何箇所か引用紹介します。

<「あらゆるものに利と毒がある」より>
毒がまわっている人の特徴は、何でもやりすぎるということです。

これはヨガの場面でよく見られる。毎日中毒のようにアーサナをしているのに腹が引き込めない人がけっこういて、毒されない抵抗力がないから中毒になれちゃうのかな、なんてことを思ったりする。

<「一方的な視点で見る危険性」より>
 日本で言えば、実際に、天台宗の僧兵が薙刀を持ち、御輿を担いで訴えを強行するということも起きています。
 だから、麻原彰晃も教義にもどづいてやったら思わぬ大きさになってしまったということなのか、あるいは単に「やっちまえ」ということでやったのか。それは当人がはっきりさせないと、ほかからは言いようがない、ただの噂話になってしまいます。
 つまり、宗教家として麻原彰晃というのはどの程度の人で、どういう考えでやったかということは知りたいし、それを知らないと僕らの判断ができないところがあります。

この事件のころにもう大人の年齢でいまヨガをやっている人は、「麻原彰晃というのはどの程度の人で、どういう考えでやったか」ということを考えることや話すことをはばかられるような情報のインプットのされ方のなかでも、やっぱりちゃんとその効果については自分なりに考えたほうがいい。
昔からある健康法を、やってよかったと思うなら、なおさら。「ヨガをすばらしいものだと思ったから、それを伝えたくて」と言う人は多いけれど、どうすばらしいかを自分の言葉でどう語るか。どう危険かを自分の言葉でどう語るか。それを抜きにして、「ヨガに感謝している」とは、安易にいえない。

<「『いいもの』は好き嫌いで判断できない何かを持っている」より>
 文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが、俺だけにしかわからない、と読者に思わせる作品です。この人の書く、こういうことは俺だけにしかわからない、と思わせたら、それは第一級の作家だと思います。とてもシンプルな見分け方と言ってよいでしょう。

ここは、読んで気がついた。なるほど、共感とか感情をゆさぶる気持ち悪さというのは、この距離感だ。コーランに「私(神)は汝の頸動脈より汝に近いところにいる」という言葉があるというのを読んだときのことを思い出した。好き嫌いではなく、もうその瞬間に少し信仰が始まっているような、そんな感じだ。

<「シンプルな判断基準」より>
消息通は知っているけれども、一般の人だったら知らないという情報は、僕にとっては意味がなく、誰にでもわかる材料しかつかいません。噂や評判で人のことをああだこうだとは言いたくないのです。それだけは心構えとして持っています。

わたしもここはまったく同じ信条のようなものを持っていて、自分の目で見た、自分に向けてくれたその人のその瞬間しか見ない。あの人って実はこうなんだよと言われても、誰にとっての「実」なのかわからない。「実はそう」だったとしても、それがわたしに向けられなければ、それはわたしには「実」じゃない。
「みんながそう言ってる」というのは「みんな」がリストアップできなければ情報ではなくて、「(わたしは)なんとなく、そう感じる」「(わたしは)そう思っている人は多いんじゃないかな」は聞くとか、主語がどこにあるのかということがあいまいなコミュニケーションは、「さびしいのかな」「疲れているのかな」と思って聞くようにする。それはそれで、その人のその状況という情報として自分の中でだけ、受け取るようにしている。それができる幅を拡げていくのは、とてもむずかしいのだけど。

<「日本人の精神活動の起源は神道」より>
 神道天皇は切っても切り離せない関係です。天皇は、最初に国家ができたときの神道の頂点に立つ人でした。
いまで言えば神主さんと言ったらいいでしょうか。それが、明治以降、「神聖にして侵すべからず」ということになり、神主だった天皇が神様のように扱われるようになったのです。天皇の承認があれば、内閣の議決がなくても、軍事力を動かせる。直接統治権天皇にあるということになって、それが終戦まで続きました。しかし、ただ明治憲法がそういうふうにつくっただけで、天皇はもともとは神主さんなのです。これが天皇の起源です。

(中略)

 そして、大昔は天皇よりも皇后のほうが上だったのです。というのは、天皇は地上の世上をうかがうにすぎないけれども、皇后は巫女さんの仕事もやります。託宣を受け取ることができ、神様により近いとされ尊重されていたのです。ところが、あるところから、世上の政治のほうが勢いが強くなって、皇后は巫女さんから単なる天皇奥さんということになっていったのです。

歴史についてガリガリ学ぶというほどのことをしなくても、「寛政異学の禁」や明治元年の「神仏分離令」あたりは、パワースポットがどうこうというのなら、知っておいたほうがい楽しいよ。なぜその時代を経て、そこへ行こうと思うのか、という「内観」が、もっと深くなる。

<「いい人と悪い人」より>
 そもそも、好きな人、嫌いな人という判定自体が不可能です。つまり、人間というものを一つのイメージとして考えた場合に、ある視点から言えば嫌いだけれども、違う視点から見ると、その同じ人が好きだという面を人間は必ずと言っていいくらい持っているからです。
 ですから、特定の主題によって人の全人格に関して好き嫌いを判定する、そうした判定の仕方をとらないですむ精神状態を保っていくようにしていければと思っています。

前半のロジック部分よりも、「そうした判定の仕方をとらないですむ精神状態を保っていく」ことが主題。自分の親の世代の人を見ていても、結局親鸞の言うように「自己否定は、どんなに修行をしたところで、差し替えたくなるものなんだ」ってことは、もう痛いほどわかっていて、この苦しみからは逃れられないから。ここは、自分で自分をさらに苦しめないための、あたたかい教え。

<「困ったらインチキでもやるしかない」より>
人として悪いことはやるべきではないけれども、いけないとわかっていながらやっているのとみたときに、自分も同じようなことをしてしまうと想像ができるから、頭ごなしに怒ることはなかなかできません。

世の中にはいろいろな法に触れることがあって、傍聴へいくと「わたしもいつか、この被告人と同じ心情になるかもしれないな」となるから、ドロリと重い気持ちになる。この気持ちは自分なりに大切にしている。たぶん、似たこと。

<「人間にとって一番大切なこと」より>
 大切なことはその都度変わっていきます。だから何が人生で重要だというふうに言われたら、ずっと一貫して、大切なものと現状の自分との距離について考えていくことだと思うのです。
 おまえの一番大切なことは何かと聞かれると、人によって、誠実であることが重要だとか、愛情が重要だとか、一人一人言い方が違うと言っていいくらいです。たしかにそれはどれもみんな重要でしょう。
 でも、自分にとって真に重要なことは何なんだと突きつけられたら、僕ならこう答えるでしょう。その時代時代で、みんなが重要だと思っていることを少し自分のほうに引き寄せてみたときに、自分に足りないものがあって行き得なかったり、行こうと思えば行けるのに気持ちがどうしても乗らなかったりする、その理由を考えることだ、と。

これまで「許す」ということについて考えるとき、それは「変化を許す」ということでないと「許す」ことにはならなくて、瞬間瞬間で許すかどうかの判断していく体力を保つことが、「誠実」ということなんだろうな、なんてことを、いくつかの引用箇所をまとめて思った。
「怒り」と「恨み」の境目は、ここにある気がする。怒るのか、恨むのか。その境界線のあっち側もこっち側も自分の「内」になってしまったときに、禅病のようなことが起こってしまうのかもしれない。「そんなこと教えてねーよ!」と、達磨さんも怒るわな。


感覚的なようで、ロジカル。ロジカルなようで、人間的。
「呼吸することを放棄していません」という意識を持ちながら生きていた人。
そんな人に見えました。

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