うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ウパニシャッドから、3つの小話(「インド文明の曙」より抜粋)

ヤージュニャヴァルキア仙の遺誡
過去に「インド文明の曙」(辻直四郎 著)の紹介を1〜9章10章のウパニシャッドの2回に分けて紹介しましたが、今日は第10章のウパニシャッド解説部分から、「ヤージュニャヴァルキア仙の遺誡」「ウッダーラカ・アールニ仙の教訓」「生死の秘密」の3つの訳を紹介します。
これらのうち二つは過去に読んだ本の中に出てきたお話なので、関連リンクをつけておきます。

インド哲学古典の喩え話にいつも脱帽しまくり、膝打ちまくりのネタが多い。日本の「戒め」のような比喩でもなく暗喩でもなく、皮肉でもなく、とにかくもう逃げ場なし。圧倒的に、あるがまま。ニュアンス的に、ありのままではなく、あるがまま。
ほんといつも、インド人すげーな、と思います。

さっそく紹介いきますね。

■ヤージュニャヴァルキア仙の遺誡(ブリハッド・アーラニアカ・ウパニシャッド四・五・一五)

ヤージュニャヴァルキアには二人の妻があった。彼が俗生活をすてて遊行に出ようとしたとき、妻の一人マイトレーイーは、財産の配にあずかるよりも、極秘の教理を聞きたいと望む。それに応じてヤージュニャヴァルキアは諄々と梵我の本質を説き明かす。次の訳例はその最後の一節で、「ネーティ・ネーティ(「非也・非也」)の教義」として知られる最も有名な梵我の定義である。

「いわば相対の存在するとき、そこに一は他を見、そこに一は他を嗅ぎ、そこに一は他を味わい、そこに一は他に語り、そこに一は他を聞き、そこに一は他を思い、そこに一は他に触れ、そこに一は他を認識す。されどその人にとりて一切が我となりしとき、そこに彼は何によって何を見得べき。そこに彼はんいによって他者を嗅ぎ得べき。そこに彼は何によって何者を味わい得べき。そこに彼は何によって何者に語り得べき。そこに彼は何によって何者を聞き得べき。そこに彼は何によって何者を思い得べき。そこに彼は何によって何者に触れ得べき。そこに彼は何によって何を認識し得べき。それによってこの一切を認識するところのもの、そを何によって認識し得べき。この我は、ただ「非也・非なり(あらず・あらず)*1」と説き得べきのみ。彼は不可壊なり、何となれば彼は補捉させれざればなり。彼は不可壊なり、何となれば彼は破壊せられざればなり。彼は無染着なり、何となれば彼は染着せられざればなり。彼は束縛せられずして動揺せず、毀損せられず。ああ、認識者*2を何によって認識し得べけんや。御身はすでにかく指数を受けられたり、マイトレーイーよ。ああ、不死とは実にかくのごとし」
と。こういい終わって、ヤージュニャヴァルキアは去っていった。

おなじみの「ネーティ・ネーティ」話の前後を含む訳。
こんなこと説かれて夫に出家されたら、もう納得するしかないよね。
▼過去に「ネーティ・ネーティ」話が出てきた日記
カルマ・ヨーガ 働きのヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
解説ヨーガ・スートラ(佐保田鶴治)
パラマハンサ・ヨガナンダとの対話

■ウッダーラカ・アールニ仙の教訓(チャーンドーギア・ウパニシャッド第六章)

ウッダーラカ・アールニ仙がその子シュヴェータ・ケートゥに与えた教訓。変異に迷わされることなく、本体を認識せよと教え、実在論的観点に立って、根本原理を「実有」と名づけ、それから現象界の展開する順序を説き、「汝はそれなり」の一句によって、梵我一如の真理を宣示している。


「愛児よ、太初において、こ(宇宙)は有のみになりき、唯一にして第二のものなかりき。これに関してある者はいえり、太初において、こは非有る(無)のみなりき。唯一にして第二のものなかりき。その非有より有は生じたりと。(二・一)


 されど実に、愛児よ、いかにしてかくあらんや」と、彼はいった、「いかにして非有より有は生ぜんや。しからずして、愛児よ、太初において、こは有のみなりき、唯一にして第二のものなかりき。(二)


 そ(有)*3は思えり、われ多とならん、繁殖せんと。そは火(熱)を創出せり。その火は思えり、われ多とならん、繁殖せんと。そは水を創出せり、ゆえにいかなるところにおいて苦熱を感ずるも、人は実に発汗す。そのとき正に火より水は生ずるなり。(三)


 その水は思えり、われ多とならん、繁殖せんと。そは食(地)を創出せり。ゆえにいかなるところに雨降るも、そこにおいて実に食は豊饒なり。そのとき正に水より食餌は生ずるなり。」(四)


「愛児よ、あたかも蜂蜜が蜜を作り、種々の樹木の液を集めて、一味の液に同化せしめ、(九・一)


 その中においてそれらの(諸液が)、われはかの木の液なり、われはかの木の液なりと、互いに区別し合うことなきがごとく、正にかく、愛児よ、これら一切の生類は、有に帰入したるとき、われらは有に帰入すと知ることなし。*4(二)


 それら*5はこの世において、あるいは虎、あるいは獅子、あるいは狼、あるいは猪、あるいは蛾、あるいは虻、あるいは蚊、その他いかなるものなりとも、そのものとなる。(三)


 この微細なるもの、この一切はこれを本性とする状態なり。そは真実(実在)なり。そは我なり。汝はそれなり、シュヴェータ・ケートゥよ」と。「神聖なる父はわれをしてさらに多くを知らしめ給え。」「諾、愛児よ」と、彼はいった。(四)
※:この句は、「われは梵なり」(ブリハッド・アラーニアカ一・四・一○)とならんで、ウパニシャッドの大格言といわれる。


「愛児よ、これらの諸川、東方にあるは東に向かって流れ、西方にあるは西に向かって流る。それらは海より海に達す。そは海そのものとなる。あたかもその中において、それらの(諸川が)、われはこれなり、われはこれなりと知らざるがごとく、(一○・一)
 正にかく、愛児よ、これら一切の生類は、……(以下、九・二─四に同じ)。


「そこより榕樹の実をもちきたれ。」「ここにあり、神聖なる父よ。」「割れ。」「割られたり、神聖なる父よ。」「何をかその中に見る。」「微細ともいうべきこれらの種粒を。」「乞うその一を割れ。」「割られたり、神聖なる父よ。」「何をかその中に見る。」「全く何ものをも(見ず)、神聖なる父よ。」(一二・一)


 彼は彼(子)にいった、「愛児よ、実に汝の認め得ざるこの微細なるもの、この微細なるものより、この大榕樹はかく成立す。*6(二)


 信ぜよ、愛児よ、この微細なるもの、……(以下、上記九・四に同じ)。


「この塩を水中に入れ、しかして明朝わがもとに近づけ。」彼(子)はそのとおりにした。(父は)彼にいった、「昨夕汝が水中に入れたる塩、乞うそをもちきたれ」と。彼はそれを探したが、発見しなかった。(一三・一)


 それは全く溶解したかのごとくであった。(父はいった、)「乞うそを(この)辺りより啜れ、いかに」と。「塩からし。」「中央より啜れ、いかに。」「塩からし。」「(かの)辺りより啜れ、いかに。」「塩からし。」「そを棄て去り、しかしてわがもとに近づけ。」彼はそのとおりにした。(父は)彼にいった、「実にここ(身体)において、愛児よ、汝は有を認むることなし。しかも(そは)実にここに存す。(二)


 この微細なるもの……(以下、上記九・四に同じ)。

「われは梵なり」の元ネタの話もすごいですが、この最後の塩の話を初めて読んだとき、まじですげーお父ちゃんだな。と思いました。
桜の木切った息子のお父さんよりすごい。
▼こっちで引用したもののほうが現代文で読みやすいです
ヒンドゥー教―インド3000年の生き方・考え方

■生死の秘密(カタ・ウパニシャッド第二章)
求道心旺盛なナチケータス少年は、あまりに執拗に質問をしたため、かえって父の怒りにふれ、死の神ヤマのもとへ送られた。ここでも少年はあらゆる誘惑をしりぞけ、ひたすらヤマにせまって、生死の秘密を聞こうとする。その熱意にほだされてヤマはついに少年のため極秘の教理を開示する。以下ヤマの言葉。


 無知と、真知として知らるるものとは、はるかに相反し相異なる。われナチケータスを真知の希望者と認む。あまたの慾望も、卿(おんみ)を迷乱せしめざりき。(四)


 無知の中にありながら、みずから賢明にして学識ありと妄想する愚者は、いたずらに狂奔して馳せめぐる、あたかも盲者に導かるる盲者のごとくに。(五)


 放逸にして財富に晦(くら)まされたる愚者に、移動(死の問題)は現前せず。彼はこの世のみあり、かの世は存在せずと妄想しつつ、再三わが配下に入る(輪廻)。(六)


 多くの人の聞くだに難きもの(根本原理)、たとい聞くとも多くの人の知り得ざるもの、そを説く人は希有なるかな。そを得る人は賢なるかな。賢者に教えられて会得する人は希有なるかな。(七)


 下根の人に教えられたるときは、たとい反復思考することも、そは容易に了解せられず。されど他人に教えらるることなしには、それに達する道あるなし。何となれば、そは微量よりさらに微にして、思弁の及ぶところにあらざればなり。(八)


 卿(おんみ)の到達せるこの教理は、思弁によりて到達せらるるべからず。他人に教えられてこそ、容易に了解せらるれ、最愛なる者よ。げに卿は真理に堅固なり。願わくは、卿のごとき質問者のわれにあらんことを。(九)


 この知見者(アートマン)は生せず、また滅せず。彼は何ものよりもきたらず、何ものともならず。この太古のものは、不生・常住・永恒にして、殺さるることなし、たとい肉身は殺さるるとも。(一八)


 殺者もし殺すと思い、被殺者もし殺されたりと思わば、両者はともに知らざるなり。彼(アートマン)は殺さず、殺されず。(一九)


 微よりも微、大よりも大なるアートマンは、この生類の胸奥にかくる。意慾なく憂患を去りたる者はそを見る、諸根(感覚)の鎮静によりてアートマンの偉大性を。(二○)


 坐しつつありて、しかも遠くに逍遙し、臥しつつありて、しかもいたるところに徘徊す。われを除きて誰か、不断に活動するこの神格(根本原理)を知り得んや。(二一)


 肉身中にありて肉身なく、不安定中にありて安定し、偉大にして普遍なるアートマンを認識して、賢者は憂えず。(二二)


 このアートマンは解説によりて得られず、理性によりても、また大なる学殖によりても。彼*7の選ぶところの者によってのみ得られ、このアートマンはかかる人に自身を顕現す。(二三)

後半がかなり「バガヴァッド・ギーター」なノリです。うちこはこういう、ヨーダとアナキンみたいな対話がドツボ。


この本の紹介は、これで最後になります。
図書館に返却しなくちゃ!

*1:積極的に定義することは不可能であるとの意。

*2:純粋意識の主体。

*3:以下 有 ── 火 ── 水 ── 地の順で物質の世界が創出されるが、その文句はブラーフマナ文献の創造神話の臭味を脱しきっていない。

*4:根本原理に帰入したとき、個別の意識は消滅する。「死後に意識のあることなし」(ブリハッド・アーラニアカ四・五・一三参照)

*5:個別化は輪廻において起こる。

*6:因中有果論。

*7:格化されたアートマンの「恩寵」。