うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

腐ったミカンと甘いバター

先日「人気のしくみ」という日記を書きましたが、ここのところずっと、朝の通勤で「SAYING OF SRI RAMAKRISHNA」を読んでいます。そのなかにまたグッときまくってしまった法話があったのですが、それを読みながら、同時に日本人の共感のしくみを思い返すことになりました。


職場でもたまに使われたりする、あまり好きではない喩えに「腐ったミカン」というのがあります。
若い世代のかたのために補足をしますが、昔「3年B組 金八先生」という大ヒットドラマがあって、その中で「悪い生徒がいると他の生徒まで影響を受ける」ということの喩えで「腐ったミカンが箱の中に一つあると、他のミカンまで腐ってしまう」という表現がされたんですね。あまりにもそれが有名で、今でも35歳以上の人はだいたいわかることになっていて、いまだにけっこうメジャー。


今回うちこがラーマクリシュナ師の教えを読みながら、なんてすてきな説明でしょう! と思ったのも、いわんとすることは同じ。でも、ちがうよ。
ご紹介します。

<430個目の法話 「Conquest of Desire」の章より>
 When butter is produced by churning curds,it should not kept in the same vessel with the buttermilk,for then it will lose something of its sweetness and hardness.
It should be kept in pure water and in a different vessel.
Similarly after attaining partical perfection in the world,if one still continues to mix with the worldly and remains in the midst of the temptations of the world,one is likely to become tainted,but one can remain pure by living out of the world.

攪拌して作られたバターを、バターミルクと同じ器に入れてしまうと、せっかくの甘さも固さも台無しよ、って。きれいな水も同じように。
世間の誘惑に身を任せるのではなく、純粋性を保つことへの意識の説明に、バターと水が用いられています。


「被害を受けないために」という理論の展開ではなく、「その性質を保つために」という、正しくあることへの能動的なスタンス。言わんとすることは似ていても、本質を照らす光の当て方の角度が圧倒的に違う。


以前、うちこがインドで膝を打って笑った「Truth と Trust のジョーク」を紹介したことがありますが、うちこはこういうインドの光の当て方の角度が大好き。全般的に、責任感がある。「自分が、どうするか」という立ち位置。


「身体が硬いんです。柔らかくなりたい」と言う人に「自分で硬くしといて、そんなこといちいち言うこたねーだろ。言ってる暇あったら息して伸ばせ」という師匠(その話も以前書きました)といるといつも思うのだけど、日本人の思考のスタンスは、恐ろしく被害妄想のダークサイドに寄っているように思う。
よく簡単に「前向きに」と口にする人がいるけれど、その発言がありえてしまう時点で、思いっきりマイナスの磁力を認識してますねあなた。と思う。ゼロではないことがあぶり出されてしまう。
三者から本当に「前に進む力」を評価されるときに使われる表現は「明るい」とか「元気」などの言葉が自然だと思う。
責任感のないところに、「前向きな人」という評価はありえない。

そんなふうに小手先でフォースを手に入れられると思っている人向けの本が、本屋さんに行くと平積みされている。ダークサイド・マーケット、恐るべし。


★ラーマクリシュナの本への感想ログは「本棚」に置いてあります。