うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉(コタムリト)田中嫺玉・奈良毅 訳

(訳者さんの名前の漢字は女偏に「間」です)
ヴェーダーンタを学ぶ人に、そしてびべたんファンのみなさんにもマストな一冊。
インド哲学に興味がなくても、生きることに迷ったときに読んだら、心にふわりと軽やかな風が吹いてくることでしょう。

「世間でいろんなことをしていても、心は神に預けっぱなしにしておきなさい。<37ページより>」


「真実(ほんもの)と偽物を見分けることを、"識別(ヴィヴェーカ)" という。神だけが真実であり、永遠の実在であって、そのほかは皆、一種の錯覚であり、すぐ移り変わる頼りにならぬもの ── こう見きわめることを識別という。<165ページより>」

仏教やヨーガの「おまかせの境地」を説明するものをこれまで何度も目にしてきましたが、ラマクリ師匠の言葉は格別です。この本は、まるで福袋というくらい、思わず唸る説明が詰まっています。


<38ページより>
世間は水。心は牛乳。── 水の中に入れてしまえば牛乳は水とまざってしまって、純粋の牛乳は探しようもなくなる。牛乳を固まらせてバターにすれば、たとえ水に落としても浮いている。だから静かなところで神を拝み、知恵と信仰という形のバターを手に入れることだ。そのバターは世間の水に落ちても、まじってしまわずに浮いているからね。

液体シリーズと粘土シリーズはヴェーダーンタの定番なのだけど、フレンドリーかつポエトリーな表現がたまらない。


<62ページ ブラフマ協会の会員との問答より>
一会員「無明がもし無智の原因でありますならば、では神は何故そんな無明などというものを存在させるのですか?」

聖ラーマクリシュナ「あの御方の遊戯(リーラ)だよ。── 暗闇がなければ光の輝きは感じられない。不幸がなければ幸福はわからない。悪を知ってこそ、善がわかる。
それからね、ホラ、外皮をかぶっているからこそ、マンゴーの実は大きくなって熟れていくんだよ。実がたべられるようになると、外皮はとって捨てられるだろう?!
マーヤの色かたちをした外皮があればこそ、だんだんとブラフマン(宇宙の大原理)の智識が育ってくるんだよ。だから、明知と無明の二つのマーヤは、マンゴーの皮のようなものでね、二つとも必要なんだ」

2割のジューシーな実には、8割の皮が必要なんだよ、という言い方だと二八の法則もカワユくなるよぉ。


<99ページより>
わたしは体の特徴を見ようと思ってデベンドラナートに言った。『体を見せてくれないかな。あんたの体を』。デベンドラナートは上着を脱いで見せてくれた。── 白い肌で、その上に赤みを散らしたようなあんばいだったかな? そのころはまだ髪は灰色になっていなかった。
先ずはじめに、少し高慢の気があるのが読みとれた。あたり前だろう? あんなに金持ちで、学問があって、有名で、人望があるんだものね?

体癖診断、してたのかっ!
ちなみにデベンドラナートというのは、息子のほうがさらに有名な詩人となるタゴールの父さん。なので、この場面は「タゴールの父ちゃんの身体をラマクリ師匠が読んでみたよ!」という、夢の競演かつ面白い場面なのですが、たぶん興奮しているのはわたしだけですね。いいの。


<167ページより>
木のなかに火の性があるという感じ ── この確信を持つものは智者。
その火をつかって米を煮て食べて栄養をとっている人が覚者。

一瞬で観客を魅了した後、「また来週〜」と軽快に去っていくような、この感じ。ゆるジゴロ〜(←新ジャンル)。


<171ページ>
神が使い手、私は道具。── これを覚らぬあいだは何度も何度も戻ってこなくてはならない。つまり、生まれ変わらなくてはならないのだ。
「あの御方だけが行為者である」ことを覚ったならば、もう再生はしない。
"私" と "私のもの" が、真実(実在)をおおいかくしているのだ。

この前後にじゃんじゃん出てくる喩えの日常ネタの連続は「ひとり笑点」の域。ものすごいっすよ。


インド哲学を勉強している人にはたまらん内容なので、ぜひ手にして読んでみてくださいな。


★ラーマクリシュナの本への感想ログは「本棚」に置いてあります。