うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

哲学漫談へのおもしろいツッコミと質問と回答


関西から戻ってまいりました。今回の漫談ではテーマをはっきり設定したせいか、質問の内容も濃くおもしろいものをいただきました。ナマの雰囲気はなかなか文章では伝えにくいのですが、いくつかこの場で共有します。参加者さんの復習も兼ねて、ちょいちょいサンスクリットを挟んでおきます。
質問、というか、ツッコミ、というか。ノリツッコミ質問?! これがナマの醍醐味ですね。


■手元のノートを見ながら「瀬」という走り書きが意味するものを自分で見失ったわたしに……
うちこ:なんか、「せ」という人が、ヴェーダーンタなこと言ってたってメモがあるんだけど、さんずいの、この「せ」ね……。誰だろ…。出てこない。
読者さん:寂聴さん、ちゃいますか?
うちこ:そうだっ! ありがとぉ。


と、助けられたり……





■ヨガニードラのスクリプトのお約束ごとや、声の話からの雑談で……
うちこ:美輪さんの声でヨガニードラのCD出したら、高くても売れるだろうなぁ。いま日本で最強じゃないかな。わたし個人は薬師丸ぴろ子たんがいいけどネ。
読者さん:最後はやっぱり、「カイ・カン」ですかっ?!
うちこ:あなた、おもしろすぎ!(ギャフン←こころの鳴る音)



と。いろいろ、やりやすかった。



という話ではなく。



まじめなのもいっぱいです。



■Smrtiの分解 経験的記憶・感覚的記憶の説明と、「好き嫌いはどこからやってくるか」の説明の後に……
読者Aさん:わたしの知人に、ものすごく好き嫌いのハッキリした人がいて……
うちこ:んー。いま寺門ジモンさんみたいな人をイメージしたけど、そんなかんじで聞いてていい?
読者Aさん:あ。それでもいいです。で、じゃあ、たとえば、もうひとり(なんか近所の人に聞いてる)
読者Bさん:上島りゅうちゃん?
読者Aさん:あ。そうそう、ジモンさんは、上島さんがすすめることは嫌やというんです。でも、わたしが言う事はOKになると、そいういうパターンの人がいて……
うちこ:それは好き嫌いか? と?
読者Aさん:はい
うちこ:まあよくある言葉で「信頼関係」っていうと、なんかぼんやりまとまっちゃうんだけど、今日の方法での分解でいうと、ジモンさんは上島さんからの提案については「いまいち」という経験的記憶がそれなりにあるのだと思う。そして、あなたからの提案には「有効」という経験的記憶を同じようにデータで積んでいる。そういうことが、ジモンさんの中で起こっていると思う。アウトプットが感覚的に見えたとしても、それはまあ、キャラクター。積まれているもののには、経験もしっかりあるんじゃないかな〜。


という展開になったり。





■サーンキャ哲学の構造分解では……
読者さん:ジーヴァとプルシャは同じではありませんか?
うちこ:「プルシャ」は30人の人がいたときにそれを30たらしめている、ユニークを定義する個という感じなんだけど、ジーヴァは「生命の存在」。なので、ひとつの生命体ととらえた理解から「プルシャと同じでは?」と感じるのは、理解が深まっている段階の質問だと思います。厳密には同じではないけれど、「同じではないか?」と思うのはいいですねぇ。こういうふうに、じわじわきます。


こういう質問が来ると、わたしも筋力が上がる。そして、こうやって話しながら理解するプロセスの中に、はじめはわからなくても「居る機会」というのが、インド哲学への第一歩。





■「統合された経験」と「理性」の話で、ブッディを「理性」という訳ですすめた説明時に……
読者さん:「これはよくないからこうする」というのが、理性じゃない場合があるという意味が、いまひとつわからないのですが。
うちこ:はい。これは、喩えが必要なところなんだけど、(んー:何個か喩えでスベった後)たとえばカレーを作っていて、ちょっと辛くなりすぎちゃったので砂糖を入れようとするのは理性じゃないの。そういうときに、ブッディの理性がはたらくとまずは水を入れようとか、そういうふうになるの……。サトヴィックな対処法。いきなり砂糖を入れようとするのは、毒を持って毒を制すような、ラジャスな対応でしょ。砂糖自体はタマスなんだけど。ああ、ややこしいね。
読者さん:(少し考えて)牛乳入れるのは?
うちこ:そー! 牛乳いいねぇ。そういうこと〜


わたしの喩えがうまく出てこなくて、スベったプロセスの最中も、ああでもないこうでもないと一緒に考える。アーサナと同じで、実際思考をめぐらせてみて、喩えを探す動きをしてみるというのがインド式。
インド人の場合は、こういうときにウパニシャッドの中の定番の喩えをスッと出します。わたしはそこまでインド思想にまだ馴染んでいないので、「やすきよ」とかになってしまいます(笑)。





■(おまけ)2日連続参加の方から後日メールで届いた、サンカルパ&後ろでんぐり返しについての質問(この場で一行ずつ返します)
読者さん:ヨガニードラの時に「サンカルパ」心と身体の約束事をしましたが、あの状態の時にお願いすると叶いやすいのですか?
うちこ:「サンカルパ」は瞑想の旅の道筋を示すものなので、願いと言うニュアンスは少なめにとらえてください。いわゆる神社にお参り的なものではなく。誓い70%+願い30% くらいの、決意のある願いという感じ。
読者さん:初日にニードラを受けた時に「チャクラアーサナ」ができるようにお願いしました。そしたら翌日にできたんです!
うちこ:それは練習の成果(笑)。「できる前提」に心と体の意識を近づけたのは、ナイス。
読者さん:これはあの時のサンカルパが効いたのかなと思ったんです。
うちこ:「チャクラアーサナができる自分をイメージしたことがなかった」状態から「次回できるもんならやりたい。やる」という心身のSamyogaがうまくいったのだと思います。





わたしは「言語化できないけど、うなずくことがある」というのは、心がベクトルを持って生きている瞬間だと思っています。それが外向きの矢印ではなく、自分を見つめる内向きの矢印の状態で共有できることが、サットサンガというものかと思い、今はあれこれ方法を模索しています。

先日の関西漫談では、サーンキャやヨーガの何がわたしたちの支えになる教えなのか、少しだけアウトラインのシャープネスが増した感覚がありました。
インド哲学は「ユーモアの価値」が高く設定された場所(人)のほうが、セッションがやりやすいと感じています。おもしろさよりも正しさが優先されると、インド哲学の勉強は頭に入ってこない。経験で、そう思っています。そんなわけで、関西はやりやすいです。
(地味な告知を目ざとく見つけて来てくださった関西、中国、四国のみなさん、ありがとうございました)