うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

公女マーラヴィカーとアグニミトラ王/ヴィクラマに契られし天女ヴルヴァシー カーリダーサ著 大地原豊(翻訳)

少し前に中勘助の「菩提樹の陰」を読んだときに頭の中で再生される映像世界がカーリダーサの「シャクンタラー姫」に似ていたのをきっかけに、家にある積読本を思い出して読みました。この一冊の中に2つの戯曲が収められています。
いずれも "芸のためなら女房も泣かすぅ~♪" と唄い出しそうな勢いの権力者の浮気話ですが、一話目は宮廷劇、二話目は天界劇で、天界での浮気物語に至ってはあっという間に浮気相手に子供が生まれ、男が「いつの間に?」と訊けば、「天女の所行は超能力で隠されてますから」と側近が答える。
男がしらばっくれてるのかと思ったら、そうじゃない。愛人になるまでのプロセスは少女漫画のように引っ張って引っ張ってちんたらしてたのに、両想いになってからの展開の早いことったら!

 

カーリダーサはインドの歴史でいえばそれはそれはもう偉大なる作家というか伝説の人というくらいの存在だけど、戯曲の構成の中に見られる風刺やコメディ要素はモリエールのようなおもしろさ。
先に読んだ辻直四郎訳「シャクンタラー姫」は代表作といわれるもので話そのものがすごく完成されているのだけど、それ以前に書かれた「公女マーラヴィカーとアグニミトラ王」「ヴィクラマに契られし天女ヴルヴァシー」には大御所になる前のやんちゃな感じがあって、また別のおもしろさがありました。
この訳者(大地原豊さん)のルビの振りかたは、原文で韻を踏んでいる箇所がわかるようになっていてまた別のおもしろさがありました。

 

それにしても、恋心を横で描写する側近(道化)の表現が毎回爆笑モノ。
若いダンサー(マーラヴィカ)に萌えた王様が、はやく周囲にうまく取り計らってほしくて落ち着かなくなっている状況を、側近がこのようにぴしゃりとやる。

お前様はというと、屠殺場うろつく禿鷹みたい、肉が欲しゅうてたまらんくせに、やたらびくびくしていなさる。重病人が心ひそかに手術の成功を願う ── といった風でいて下すりゃあ有り難いが。
(公女マーラヴィカーとアグニミトラ王 第二幕より)

この重病人の手術の喩えのうまさが王様の小ささを示していて、なんともいえぬセンス。この王様はなんとなく「早く茶々(淀殿)とイチャイチャしたいのだが!」とじれる秀吉のようなキャラクターで、強引なんだけど浮気の態度はおちゃめ。

 

 

「ヴィクラマ(武勲王)に契られし天女ヴルヴァシー」では、登場人物たちが状況や他者について描写するセリフの中にインドの人々の共通概念が織り込まれていて、健康情報や職業人のボヤキが自然に入ってきます。

御婦人よ、こなたにゃ早う食事を進ぜられい ── 〔錯乱をもたらす〕胆汁過多を鎮め得るのは、おまんまじゃからな。
(第二幕の道化のセリフ)

一家の長は誰とても、壮年期には稼ぎに奔命、それより後は息子らが 肩代わりして荷は軽く 安息の境に向かうものなり。 しかるを、これこのとおり、身共の老境はといえば 日々に腰曲げ身をへつる 宮仕えなる牢獄よ。婦女子扱うお役向き、ああ辛いかな辛いかな。
(第二幕の執事のセリフ・歌形式)

天界なんぞに、想いを繋ぐこと何あるものか。あそこじゃ〔神々という住人ども、〕飲み食いすることものうて、ただもう眼は瞬きもせず、魚みたいにいるのが落(おち)じゃて。
(第三幕の道化のセリフ)

「胆汁過多のヒステリーにはご飯を」「執事はつらいよ」「天界は退屈で退屈で目が魚のようさ」以上三本立てで引用してみました。


この本を読んだら、カーリダーサの戯曲は、ダクシナダクシナと言って「心憎し(すばらしい)」「南の風が」としたり、「酔液」「施し」のダーナという音を一文の中に入れたり、プラークリット詩とサンスクリット語の歌を連続させてそれぞれにそれぞれの意味で「チャクラ」(サンスクリットでは車輪)を入れたり、ものすごく凝ったことをしているのだなということがわかりました。
「ヴィクラマに契られし天女ヴルヴァシー」は天界の話なので月と太陽、インドラやシヴァの名前も多く出てきます。ハタ・ヨーガではイダー&ピンガラーと重ねられるガンガー&ヤムナー河の合流も別の喩えで使われて出てくるので、神話と重ねたり韻を踏んで表現される世界に触れている人には、表現の事例を多く得られて楽しく読めます。

そしていずれの物語も正妻(王妃)は夫が若い女を追いかけていくのを、論理は違えどあきらめるというか、怒って出ていくにも出ていきようのない世界というか、離縁という発想のない世界。夫婦げんかの代理戦争のように宮廷内ダンス甲子園が開かれたり、とにかくすべてが想定外。
なんじゃこりゃー! でも、おもしろい!