うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

饒舌について プルタルコス著/柳沼重剛 (翻訳)

年末年始に本を持って旅に出たけれど、simカードを入れてしまったせいで見事に読書ができませんでした。

そんな旅のさなかで唯一夢中になって読めた本がこの『饒舌について』でした。

 

この本には、SNSの無限スクロール世界と真逆の価値観が書いてあります。

明るすぎるものには影を添え、目に優しく見やすくしろと。自分は運に恵まれただけということにしておけといいます。

ただしそういう配慮が必要になるのは、”はなはだつきあいにくい、邪推しやすい人” に対してのことで、”普通の、心の調和のとれた人々” が相手ならそこまでしなくていいと。チューニングの基準が明確に示され、至れり尽くせりです。

そんなことが『人から憎まれずに自分を褒めること』というエッセイに書いてありました。

 

 

著者はA.D.40年くらいの人物ですが、そこに書かれていることは “めっちゃ本当のことを言ってくれる先輩の言葉” 。

コミュニケーションについてのエッセイ集ですが、「まずは身近な人に話してみて」と、 ”まずは” 吐き出すことを推奨するアドバイスやその能天気さに釘を刺す以下の教えが大変貴重です。

荷物は下ろせば軽くなるが、言葉は出しても軽くはならない(言ってもなおかつ残るから)。人が何かを言うのは、自分自身必要があってか、聞く人に利益を与えるためか、同じことを楽しんでいる、あるいは同じ仕事をしている者どうしが、いわば会話という塩で調味することによって、互いに相手に喜びを与えあうためか、のいずれかである。

(『饒舌について』より)

相手によって適切なトピックは変わるし、ファンデーションを整えないまま行われる独演会は聞かされる側にとっては負担になります。

 

ここではいま流行りの「ジャーナリング」が推奨されていて、上記の引用と同じページにこう書かれていました。

ペンを使っての仮想論戦を行なってその中でわめくならば、彼を交わりと持つ人々の、日々の負担は軽くなるだろう。ちょうど犬が怒っている時に石か木片をあてがってやれば、怒りはその石や木片のほうに行って、人間にはそれほどひどく当たらないのと同じである。

著者のプルタルコスはこのように、交わりを持つ人々の日々の負担について言及します。ユーモアを忘れないその書きっぷりが最高です。

 

『いかに敵から利益を得るか』は、まるでヨーガ・スートラのように自己の内部へ分け入ることを推奨していくエッセイで、こんな逸話が挿入されます。

シシリー島のシュラクサイの僭主ヒエロンは、嫌な口臭がすると敵から言われた。そこで帰宅して妻に言った、「これはどういうことだ。そなたもこんなことは一言も私に言わなかったではないか。」その妻は賢く純情な女性だったが、「殿方というものは皆さまこういう臭いがいたすものと存じておりました」と答えた。かくのごとく、感じとか、誰の目にも明らかなことというものは、友人や近親者より敵から知らされるものなのだ。

めちゃくちゃおもしろい新作落語みたい。"賢く純情" というところなんてうますぎる・・・。訳もナイスです。

 

 

この本にはほかに『知りたがりについて』『弱気について』というエッセイも収録されていて、まるでヴァータ病とタマス質の解説をエッセイにしたよ! とでもいうような内容。

 

あとで(知りたがりのわたしが)検索して知ったのですが、著者はエッセーの祖と言うべき哲学者とのこと。

エッセーの祖ってなに? って感じですが、読めばなるほどの名著です。スタイルの開祖って、やっぱりすごいのね。

A.D.40年って、聖徳太子よりもパタンジャリよりも前ってことでしょ。おもしろいわ。