うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ひとりでFワードを連発する女性たちが愛おしかった2018年

今年読んだ本、観た映画でとても印象に残っている作品が二つあります。その二作品の共通点は、心の中でFワードを連発する女性が登場すること。
最初にその様子を見たとき、若き日の自分を思い出しました。絶対に押さえ込まなければいけないあの激質。絶対に開けてはいけない蓋。飲み会のシーズンに激烈しんどくなったら、ヤングはこの映画を観ればいい。ああ20年前にこの映画があれば。
原作もかなりおもしろいのだけど、映画化したらさらにすごいことになっていました。

勝手にふるえてろ

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勝手にふるえてろ [DVD]

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 この主人公のFワードの使い方に、日本社会を感じる。せつない。しんどい。
この映画版「勝手にふるえてろ」に確実に存在していた癒やしの性質について、そのときは掘り下げませんでした。

 


が、わたしは今年もう一人、心の中でそれを連発する女性を見つけました。
この本の著者。

この作家はFワードの使い方が高度。ネイティブ・ユーザーは奥行きがちがう。どうにもコメントのしにくい人生を歩んでいる年長の男性と会った後、彼と同世代の成功者と会って模範的にハートフルな会話をし、そのときにこれが出る。

わたしは泣くのをこらえるためにお尻にぎゅっと力を入れ、頭の中で<ファックユーファックユーファックユーファックユー>を唱えるという裏技を駆使した。

そう。このワードは、こういうときに出てくるものだ。自分が関与していないはずの格差そのものに、格差を感じるとき。


ミランダ・ジュライの内省はどこまでもしつこい。仕事を得たいと考えている少し事情の複雑な少年に手を差し伸べたくなるとき、このように自分の中でスイッチを切り替える。

 わたしは性急に何か具体的なアドバイスをしたい誘惑にかられた。うちの兄が湿地帯を復元する仕事をしているんだけれど、そこに見習いで入ってみない?── そんな言葉が喉元まで出かかった。でも、誰と会ってもその人の直面する問題にばかり目がいってしまって他の部分がまるで見えなくなるのは、たぶんわたしのよくない癖なのかもしれなかった。

自分が楽になりたいだけだ、という気持ちの根っこをちゃんと見る。見ちゃうんだからすごいのだ。わたしのイメージする「かっこいい成熟」がそこにありました。


格差にどう対峙するか。この景色をどう見るか。はじめて読む人のために人名のところは○○にして引用するけれど、こういう機会ってあるよな…と思う場面をミランダ・ジュライはこのように描写します。

 ○○は、誰もがこういう人物のアパートに入るはめにだけは陥るまいと心がけて一生を送るようなタイプの人間だった。そしてそういう人々の理解者になってあげるように努力しなさいと親から言われて育ったわたしは、彼とのインタビューには最大限の注意を払ってきた。だが際限なく続く彼のおしゃべりを聞いているうちに(オリジナルの書き起こし原稿は五十ページ以上にもなった)、自分はべつにこの手の人々を理解したいわけではないのだ、ただ彼らに理解されたと感じてほしいだけなのだ、と気がついた。なぜか。ああこいつもやっぱり自分を信じていないのだと思われたら、あとが怖いからだ。彼らが最後の審判を下すときには、わたしのことだけは除外してほしいのだ。

本文では「自分はべつにこの人々を理解したいわけではないのだ、ただ彼らに理解されたと感じてほしいだけなのだ」の「感じて」に強調点がついている。これはわたしがなぜ傍聴へ行くのか、という理由と似ている。保身に入るときの自分を自分で断罪するのが怖いから。

 

これはたまにヨガの練習仲間と話すことなのだけど、ヨガをしようと思えている人は自分の状態をよくしようと現実社会の中で思えている。でも国民全体の中ではほんの一部でしかない。わたしはこちら側だけ見ようとする行為に批判的なもう一人の自分を放っておけないところがあって、「保身のなにが悪い!」という開き直りの文法を採用できない。そこが自分でも気になる。


ミランダ・ジュライのいう「コミュニケーション・ハイ」「いやらしい優越感」についても、まさにそんな言語化を待っていたという気持ちで読みました。自分と似たような人とだけ交流していれば気づかずにいられる自分のいやらしさを掘り下げる論法は、まるでスワミ・ヴィヴェーカーナンダの説法のよう。なのにミランダ・ジュライはその経験がまだ見足りないとも感じている様子。ひとことでいうと頼もしい。久しぶりにすごい人を見ちゃった。


わたしは現実逃避はしてもいいと思うけれど、現実を虚構で塗り替える行為には暴力性を認めないといけないと思っています。たとえそれが脳内だけのことであっても。そして、それを認めるのはかなりしんどい。だからFワードも湧く。そして、たとえ頭の中でFワードをつぶやいていようと、この葛藤から逃げない人をかっこいいと感じる。だって逃げるためには誰かを敵に設定したりするし、感謝といいながら自分を苦しめたりするのだもの。そしてそこにさみしさが加われば、その虚構に他者を巻き込もうとすらしてしまう。
勝手にふるえてろ」の主人公はミランダ・ジュライのようにかっこよくはないけれど、虚構で塗り替える人生をやめる物語。すごい勇気の物語。しかもその導き手がスイートで最高! 原作をいいイメージで上回ってくる。


自分がどういう視点や物語に心根の部分で癒やしを感じるかを思い知るきっかけがこんな共通点だなんて、内緒にしておきたいくらい。温泉の効きかたにもいろいろあるように、芯からあったまるというのがどういう感じか、この年になってちょっとわかった気がしました。世の中にはおもしろい人がいっぱいいますね。

 

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