うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

新・目白雑録 もっと、小さいこと 金井美恵子 著


職業に「◯◯さん」とつけて呼ぶことについてのさまざまなひっかかりを、こんなふうに的確に長く書いてくれますか! という文章がいくつもあり、その部分を読んでいるときのわたしは二宮金次郎の石像みたいに固まっていたのではないかと思う。以下の部分を読んでなにか感じた人に、この本はすごくおすすめ。

 職業に「さん」をつけて呼ぶのは、職業に貴賤は無いと信じる者の差別意識とも見えるし、子供っぽい仕草だと長いこと思っていたのだが、そうした考え方がゆらぐ体験が、「DJポリス」への「おまわりさんコール」騒動だったのかもしれない。
(27ページ 「さん」付けで呼ぶ(呼ばれる)職業 2013年11月 の締めくくりの一文)

わたしは文章を書くときにさまざまな思いで「えいやっ」と慣習にあわせて「さん」をつけたり、とにかく「なんかエラそう」と言われることのないトーンにすることが運動神経的にはたらくネット体質なのですが、このエッセイには「やっぱりこれ、ヘンだ!」と思うことがたくさん書かれていて、滝に打たれたような気分になる指摘だらけ。出典引用を毎回明確に書いているなどの基本的なことがすべておさえられていて、読みながら腰が入ります。


DJポリスって、あったねぇそんなことという時事ネタから、感じる人はうっすらと感じていた気持ち悪さを解剖する。「この視点に立ったらこれは幼稚な考えと見る」という視点をいくつも持っていて、鮮やか。


わたしが子供のころに不思議でこわいと思ったことについても書かれていました。東京オリンピックのマラソンで銅メダルを取って自殺した人のこと。いまから20年前くらいに(調べたら94年でした)ワールドカップオウンゴールをしたサッカー選手が殺された事件があって、そのときに友人と話しながら「サッカーは賭博もからんでいるようだけど、日本は賭博がなくても自殺する展開になるんだよなぁ…」と、そんなことを想起していて、この想念は子供のころからよく解凍されがちだったのだけど、そのこわさの構造のようなものが書かれていました。
2013年1月・毎日新聞朝刊の都内面連載記事に「おもてなしの美学」というタイトルの文章があり、それは「1964年10月21日。東京五輪陸上競技場最終種目となるマラソンはフィナーレを迎えていた。」で始まる当時の新聞記事を引用したものだったそうです。その「おもてなしの美学」には、当時のコンパニオンだった女性の紹介もあり、当時のことを回想しつつ、このエッセイでは以下のように書かれています。

「円谷、しっかりしなさい!」というコンパニオンの言葉づかいは、遺書を知ったうえで眼にすると、「幸吉は疲れました」という弱々しい悲鳴を叱りつけているようではないか。この記事の書き手である若い記者は、アベベ・ビキラに4分遅れて「国立競技場の大観衆の前に戻ってきた」円谷が「英国選手に抜かれて銅メダルに終わったものの、陸上で日本唯一のメダルを獲得。」と、銀メダルの選手は名前ではなく当然のように国名で記している。当時二十一歳の、コンパニオンに選ばれたエリートでもある、民族衣装の振り袖を着た娘に「しっかりしなさい!」という、母親か女教師のような命令形の言葉を使わせた時代背景について、私なりに考えてみたいと思うのだ。むろん、大仰な大文字の歴史などではなく、ほんの枝葉末節のことにすぎないのだが──。
(本文では「名前」「国名」「エリート」に強調の点がついています)(51ページ 「円谷、しっかりしなさい!」 2014年2月 より)

わたしは肝っ玉かあさんあるいは未来の肝っ玉かあさんとみなされるような女性が発言するフレーズに寒気を感じることが多いので、うわーこの感じが文章になってる…、と、この種の感情の文字列化にはじめて出会い、なにかが溶解しました。
わたしは西原理恵子さんの対談やエッセイを、この種の気持ち悪さの確認のために読んでいるところがあります。好きで読むのではない、確認のために読むような読書。
それは、「あの肝っ玉的なキャラクターで振り切ろうとするなにかな、なんだろう」ということでもあるし、「豪快さでコーティングした媚びで昇華できるとみなしているものは、なんだろう」という、ジェネレーション・ギャップも含めたなにかなのだけど、紐解けないんですよねぇ。先日紹介した壇蜜さんとの対談に見える対比でジェネレーション・ギャップの部分はちょっと紐解けた感じもしていたのだけど、でも違ったみたい。年齢は関係ない。
このエッセイを読んで、わたしも「母親か女教師のような命令形の言葉を使わせた時代背景」について、自分なりに考えてみたいと思いました。


このエッセイでは「紙の本の在庫」について、川上未映子さんが週刊新潮の連載「オモロマンティック・ボム!」で「amazonに在庫が入ってほしい」と書く状況について、ぶっ飛んでいると書きつつもカッコ書きで(いや、普通のことかもしれない)と書かれていて、ここはすごく昔の話を聞いているような気分になりました。作家が自ら宣伝をしながら「在庫を入れて!」と言いにくいというのは、読みたい人にとっては理解を超えすぎていて、そんな複雑な背景を匂わされてもなぁ…という気がしました。
わたしの日常的な感覚では、Kindle版も同時発売したほうが作家も出版社も利益が上がると思うんですよね…。割を食うのは紙の書店なので、そのへんが難しいのだと思うのだけど。本の流通については、別のトピックで以下の指摘もされています。

 書店開発株式会社の広告の、大変魅力のあるビジネスとして、「定価販売・返品可能」として紹介されているのが再販制度なのだが、私たちがこの広告から連想するのは、いわゆる「町の本屋さん」とさんづけで親しまれる文化というよりは、もっと別のなにかである。
(本文では町の本屋さんの「さん」と「なにか」に強調の点がついています)(150ページ 落穂ひろい1「100人の村」という大虐殺 2014年11月 より)

このエッセイは読み手を信じて書かれているようなところがあって、たぶん辛口なんだろうけど、ちっともいやな感じがしない。


ほかにもさりげなく差し込まれる「つづり方という、なんとなく絵本の読みきかせや気づきに語感の似ている教育臭の匂う言葉(172ページ)」という感覚など、いつもはスルーするひっかかりがいっぱい。ここでは「つづり方」「読みきかせ」「気づき」に強調の点が打たれていますが、教育臭が「匂う」という状況には、わたしもぞっとすることが多いです。
日々寝かせていたさまざまな気持ちを引き出してくれるエッセイ。ここまで読んで一度もイラッとしなかった人には、きっとかなりおもしろく読めると思います。