2007年5月27日に高倉会館(東本願寺)の日曜講演で話された「愚者になりて往生す」という講題がベースになっています。心のプロセスを、「ペツエッティーノの旅」という絵本の内容紹介を通じて展開していく構成。
冒頭に
むなしさを感じるのは、本当に自分にうなずきたいということがあるからです。
それがなければ、むなしいと思わなくてもいいわけです。
とあり、この「うなずきたいこと」というひとことに引き込まれました。
そして、「末燈抄(まっとうしょう)」という親鸞の書簡について、この本で知りました。
引用で、以下の部分が紹介されていました。
ふみざたして、さかさかしきひとのまいりたるをば
往生はいかがあらんずらんと
たしかにうけたまわりき。
「文沙汰してさかさかしき人」というのは、議論したり覚えたりして得た自分の理解を振り回す人のことを言うのだそうで、法然上人はそういう人を見ては「この方の往生はどうであろうか」と首をかしげられた、とありました。
「さかさかしき人」。
インターネットの情報伝達で、これを感じることがある。
「さかさかしき双方向」を見かけたときに、こういうことは、昔からこんなふうに指摘されていた間の行動のひとつなんだと。「なんでこうなる」ではなく、こういうこともあるんだ」と。
こういう「潔いあきらめ」のようなものが人気の理由のひとつなのだと思うのだけど、うちこはこういうところを、「清少納言みたい」と思ったりします。「うつくしきもの」も「にくきもの」も語る。うつくしきものだけを見るのではなくて、うつくしくないことの存在の揺るぎなさをみとめる。
みとめたうえで、争うよりは共存の道をさがすほうが、よくはないかい?
そんな行動の人。
やっぱり認める力は圧倒的な「力」なのだけど、親鸞聖人はひときわチャーミング。時代のなかでチューニングをしている。空海さんとはまた別の才能。
親鸞聖人のおかげで「いいじゃない顕教」と思うようになりました。