うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

THE TEACHING OF BUDDHA(和英対照仏教聖典)

和英対照仏教聖典
高野山の宿坊になにげに置いてあったので、寝る間を惜しんで読んでしまいました。そして月曜に泊まった札幌のホテルにもこれが置いてあって、今週また読みました。
仏陀の教えの日英対訳です。偏った単語がたくさん覚えられます(笑)。読みながら、ラーマクリシュナさんの教えの日本発バージョンみたいな文章だわ、と思ったのですが、仏陀さんもインド人なんですよね。高野山で読んでいたので、なんとなく日本人だと思っちゃった。
それだけ、お釈迦様は身近な存在ってことなんですね。


これは日本の全ホテルにおいて欲しいな。「ヨガの喜び」も置いて欲しいですが、それは無理だとしてもこれは置いて欲しい。
今回は旅先でメモのように撮った写真から起こしたので、ページ数などは控えていません。メモした箇所を紹介します。最初だけ、日英文両方記載しますね。

この世には三種の人がある。岩に刻んだ文字のような人と、砂に書いた文字のような人と、水に書いた文字のような人である。
 岩に刻んだ文字のような人とは、しばしば腹を立てて、その怒りを長く続け、怒りが、刻み込んだ文字のように消えることのない人をいう。
 砂に書いた文字のような人とは、しばしば腹を立てるが、その怒りが、砂に書いた文字のように、速やかに消え去る人を指す。
 水に書いた文字のような人とは、水の上に文字を書いても、流れて形にならないように、他人の悪口や不快なことばを聴いても、少しも心に跡を留めることもなく、温和な気の満ちている人のことをいう。


 There are three kinds of people in the world. The first are those who are like letters carved in rock; they easily give way who anger and retain their angry thoughts for a long time. The second are those who are like letter written in sand; they give way to anger also, but their angry thoughts quickly pass away. The third is those who are like letters written in running water; they do not retain their passing thoughts; they let abuse and uncomfortable gossip pass by unnoticed; their minds are always pure and undisturbed.

うまいこといいますよほんと。というのがどんどん続きます。

 一本の材木が、大きな河を流れているとする。その材木が、左右の岸に近づかず、中流にも沈まず、陸にも上らず、人にも撮られず、渦にも巻き込まれず、内から腐ることもなければ、その材木はついに海に流れ入るであろう。
 この材木のたとえのように、内にも外にもとらわれず、有にも無にもとらわれず。正にも邪にもとらわれず、迷いを離れ、さとりにこだわらず、中流に身をまかせるのが、道を修めるものの中道の見方、中道の生活である。

「内から腐ることもなければ」と丸めたうえで、はい、という流れがすごい。

 人は清らかさと汚れとがあると思って、この二つにこだわる。しかし、ものにはもともと、清らかさもなければ汚れもなく、清らかさも汚れも、ともに人が心のはからいの上に作ったものにすぎない。
 人は善と悪とを、もともと別なものと思い、善悪にこだわっている。しかし、単なる善もなく、単なる悪もない。
さとりの道に入った人はこの善悪はもともと別ではないと知って、その真理をさとるのである。
 人は幸福を恐れて不幸を望む。しかし、真実の智慧をもってこの二つをながめると、不幸の状態がそのままに、幸福となることがわかる。それだから、不幸がそのままに幸福であるとさとって、心身にまとわりついて自由を拘束する迷いも真実の自由も特別にはないと知って、こうして、人はその真理をさとるのである。

とてもヨガ的であり、理趣経的でもあり。

 煩悩のちりに包まれて、しかも染まることも、汚れることもない、本来清浄な心がある。
 まるい器に水を入れるとまるくなり、四角な器に水を入れると四角になる。しかし、本来、水にまるや四角の形があるのではない。ところが、すべての人びとはこのことを忘れて、水の形にとらわれている。
 善しを悪しと見、好む好まぬと考え、有り無しと思い、その考えに使われ、その見方に縛られて、外のものを追って苦しんでいる。

有名なたとえですが、自然物を題材にした喩えは、随時思い出させてくれるところがよいですね。

 我は迷いに導くものであり、仏性はさとりに至らせるものである。

我を外から追いかけて苦しむなと。

 さとりを得ようと思うものは、欲の火を去らなければならない。干し草を背に負う者が野火を見て避けるように、さとりの道を求める者は、必ずこの欲の火から遠ざからなければならない。
 美しい色を見、それに心を奪われることを恐れて眼をくり抜こうとする者は愚かである。心が主(あるじ)であるから、よこしまな心を絶てば、従者である眼の思いは直ちにやむ。

なにかを悪にしなければ実行できないようなことは、きっと本当には実行できない。

 乞う者を見て与えるのは施しであるが、最上の施しとはいえない。心を開いて、自ら進んで他人に施すのが最上の施しである。また、ときどき施すのも最上の施しではない。
常に施すのが最上の施しである。


 施した後で悔いたり、施して誇りがましく思うのは、最上の施しではない。施して喜び、施した自分と、施しを受けた人と、施した物と、この三つをともに忘れるのが最上の施しである。

心を開くということについて考えさせられる。無理やり定義したり分類したりすれば、ものは言いよう。無意識に施せていることと、意識してしまうことについて振り返るきっかけになった。愛なんだな。

 第一に、教えを説く者は、忍耐の大地に住し、柔和であって荒々しくなく、すべては空であって善悪のはからいを起こすべきものでもなく、また執着すべきものでもないと考え、ここに心のすわりを置いて、身の行いを柔らかにしなければならない。


 第二には、さまざまな境遇の相手に心をくばって、権勢ある者や邪悪な生活をする者に近づかないようにし、また異性に親しまない。静かなところにあって心を修め、すべては因縁によって起こる道理を考えてこれを心のすわりとし、他人を侮らず、軽んぜず、他人の過ちを説かないようにしなければならない。

「権勢ある者に近づかない」というのは、重要と思う。そして「異性に親しまない」というところが面白くて、いつも「仏陀さんはモテた人なんだろうなぁ」と思う。これ以外にも定期的に「潔癖オチ」なネタがある。非モテよりめんどくさい(笑)。
「他人の過ちを説かないようにしなければならない」というのは、いつも肝に銘じなくては。導火線が短すぎる。

 夜眠るときには、身と口と意(こころ)のはたらきを休めて心を清めようと願い、朝目覚めては、すべてをさとって、何ごとにも気のつくようになろうと願うがよい。

ヨガ友と旅をすると「本当に死んだかと思う」ような寝かた(5秒でおちる)をすると言われるうちこなのですが、「毎日死んで、毎日生まれる」のは本当にすがすがしいものです。悪い印象をひきずらない。起きる前に死んじゃってるから。

 人間の世界のことは迷いであって意味がなく、さとりの世界のことは尊い、という二つに分けることなく、世間のすべてのできごとの中にさとりの道を味わうようにする。


 無明に覆われた眼で見れば、世間は意味のない間違ったものとなるであろうが、智慧をもって明らかにながめると、そのままがさとりの世界になる。


 ものに、意味のないものと意味のあるものとの二つがあるのでなく、善いものと悪いものとの二つがあるのでもない。二つに分けるのは人のはからいである。


 はからいを離れた智慧をもって照らせば、すべてはみな尊い意味を持つものとなる。

いいも悪いも、自分で分けてるんですよね。

 人は親しむべき友と、親しむべきではない友とを、見分けなければならない。
 親しむべきではない友とは、貪りの深い人、ことばの巧みな人、へつらう人、浪費する人である。
 親しむべき友とは、ほんとうに助けになる人、苦楽をともにする人、忠言を惜しまない人、同情心の深い人である。


 ふまじめにならないように注意を与え、陰に回って心配をし、災難にあったときには慰め、必要なときに助力を惜しまず、秘密をあばかず、常に正しい方へ導いてくれる人は、親しみ仕えるべき友である。


 自らこのような友を得ることは容易ではないが、また、自分もこのような友になるように心がけなければならない。

「ふまじめにならないように注意を与えてくれる人」というのは、本当にありがたい。「今日も明日もちゃんとやれよ」といわれるわけではなくて「お。今日もやってるね」と、逆のアプローチ。同じことだと思う。自分がそれが忠言だってことに気づけるかが重要。

 ことばだけ美しくて、実行の伴わないのは、色あって香りのない花のようなものである。

以前「肉体は、花のように。神性は、はちみつのように」というエピソードを書いたけど、実行や体験でつながえり合えるコミュニケーションを大切にしたいと最近つくづく思う。


「権勢者」というワードが印象深かった。
きっと昔から長いものに巻かれたい人とか、権勢ある者にパラサイトしたい人ってのがいて、すごくベーシックな欲としてあったのだろう。「特定の人に仕えたい欲」みたいなものか。逆にそうされないと物足りないかのような権威者もいる。
うちこは自我の強い人をあまりじょうずにヨイショできないので職場で異物扱いされてしまったりするのだけど、少しだけ自分の中でバランスが整ったような気がしました。

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