うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

外套 ニコライ・ゴーゴリ著  平井肇(訳)

寒い寒いロシアで、まともな外套なしには身体的にも精神的にも乗り切れない環境で公務員が外套を新調するお話です。
序盤から文章の書き方に独特の意地悪さがあって、著者が登場人物を異常にこき下ろしたり、物語を突き放すような文章も入ってくる。途中で、ここは著者もそんなに興味がないからこれ以上書かない、みたいなフレーズを挟んでくる。なんだこれは。まるで設定そのものも含めて楽しむコントのよう。

 

わたしの生まれ育った雪国はロシアほど寒くはないけれど、地球温暖化前の昭和の過酷な冬を思い出し、「ヤッケ」をいつまでも着ていた人が「ダウンジャケット」を買ったなら、きっと職場だけでなく原信でもコメリでもとにかくご近所のあちこちで「いよいよあの人もダウンを買ったね」と、こんなふうに冷やかされるよなぁと、皮膚感覚も含めて胸がキュッとなる思い出が解凍されました。

 

わたしが子供の頃にうっすらと感じてきた世界と、この「外套」の世界は妙に重なる。なんだか怖いくらいでした。

そう、わたしはとても、アカーキイ的だった。アカーキイはこの物語の主人公の名前です。序盤からいきなり、コテンパンにイケてない人間として描かれます。


いやな内省を誘う物語でした。アカーキイは雪の降らないどこかで、もっとこの気質がハマる場所に生まれていたなら、しあわせな人生を送ったのではないか。いや、そんなことはないか。そんなことないかなぁ。「ここではないどこか」を美化しすぎかなぁ。ちょっとくらい美化させてよ。でなけりゃ、しんどすぎる。


この物語は、今の感覚で読むと大人のいじめの世界。まるで大映ドラマのようです。
後半で主人公が媚びなければならなくなる相手は、昨今たまにコンビニやホテルで見かける、外国人労働者や若者に向けて威力業務妨害をする年長者のクレーマーのよう。この発言と心理の描写がものすごくうまくて、こっち方面で悪魔化した人間の思考を書かせるとすごいなゴーゴリ! と、妙に感心してしまいました。


━━ なんだけど、本題はそこじゃない。
格差の中でなんとか自尊心を保ちながら生きていく、その過程のなかで、個人の中に蓄積していくものを描いています。
終盤で主人公の年齢を知ってどっかーんとびっくりする流れの前後には感覚的な既視感があり、この小説を思い出しました。


え、え、え、ちょっと待って! この年齢になっても、そんな目に遭わなきゃいけない社会なの!?  と思うと同時に、妙なおかしみもある。

主人公が熱中できるものが子どものようにシンプルで、それが仕事になっているという描写があるから。そのしあわせを否定しないということは、つまりはこの現実も否定しないこととトレード・オフであることを思い知らされます。

 


━━ なんだけど、この物語はそこからさらに大きく斜め上に爆走します。
えええええ、という展開になります。「清貧」を清貧礼賛で終わらせないだけでなく、さらに、まだまだ、まだまだ終わらせませんぜぃ〜という展開が待っていました。
「清貧」には、二種類あるんですよね。ブッダやガンディーのように、権威の衣に包まれ「なにか」を満たした経験があったうえでの清貧と、そうではないストレートな貧。「清」の意味が二つある。
ストレートな清貧なんて、あると思ってる? と問われたような気分。こりゃあすごい話です。