うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

角屋もてなしの文化美術館(京都)

「パリと京都は似ている」と思うことが多い。でもこの場所ではパリと京都が絶対的に違うところを見た。
西本願寺から歩いていける場所にある、「角屋もてなしの文化美術館」。文化財としてはグッとくるものが少なかったのだけど、この存在の説明そのものが京都のさまざまなことを物語っているのがすごくおもしろかった。
この建物は、「解説(紙パンフ)」を全部読んでから、感度いっぱいで歩くのがいいはず。


 マーケティング」と「文化保存」のはざまで


 「エロ」と「風俗の歴史」のはざまで


すごく、ねじれてる。その「ねじれ」の皺から染み出る「お出汁」を楽しむ場所です。
京都の人にはまどろっこしい書き方かもしれないので先に書くと、うちこには
「ここは揚屋で、置屋とは違うんです」 という解説が、遠回しなのにすごくしつこくておもしろかった。という感想です。


パンフレットは、「カラーの概要・A4三つ折」「モノクロの歴史解説・A4三つ折」「文字だけのQ&A・A4三つ折」3つ渡されます。Q&Aは公式サイトでも読むことができるのですが、あとで分解しながら引用紹介します。
そのほかの二つは、転記して紹介します。
角屋保存会の人には「はっきり書かれたくないこと」なのかもしれないですが、うちこは愛情を持ってこの文化財を紹介するつもりでいます。という前置きをしておきますね。東京の人には(新潟の人だけど)こういうところがおもしろいんです、というのは別の視点だと思うから。




モノクロの歴史解説がいちばん重要なので、その本文を紹介します。

京島原と「角屋
 島原の花街(歌舞音曲の遊宴の町)は、天正十七年(一五八九)に豊臣秀吉の許しを得て、柳馬二条に「柳町」として開設された。その後、御所に近いなどの理由で、慶長七年(一六○二)に六条柳町東本願寺の北側付近)に移転させられた。この地は、通称「六条三筋町」と呼ばれ、お大いに繁盛したが、町中では風紀を乱すとのことから、またも寛永十八年(一六四一)に辺鄙な朱雀野(しゅしゃかの・現在の島原)に移転を命じられた。「西新屋敷」が正式地名であるが、その移転騒動が当時の九州島原の乱に似ているとして、「島原」と通称されてきた。
 島原は、遊宴の場である「揚屋」と、揚屋太夫や芸妓を派遣する「置屋」からなる分業制をとっていた。揚屋は江戸吉原においては、宝暦十年(一七六○)に完全に消滅したが、京の島原や大坂の新町では、拡張を重ねて大宴会場へと特化していく。その特徴は、大座敷や広庭、茶席を設け、庫裏と同等の台所を備えるところにある。角屋は島原開設当初から存在するが、現在の規模になったのは天明七年(一七八七)の増築後のことである。
 島原は公認の花街であったが、立地の悪さから次第に寂れ、町中にある非公認の祇園などが大いに栄えた。島原としても集客のために、からくり人形を飾った「籠屋」や、太夫による仮装行列の「練物」などの年中行事を行なった。灯籠を見物した本居宣長は、自身の『在京日記』にその賑わいぶりを記しているが、これも一時的なものに終わった。
 島原は、単に遊宴を事とするにとどまらず、文芸も盛んな町であった。とりわけ俳諧は、江戸中期に与謝蕪村の親友炭太祇(たんたいぎ)が島原に住み込み、「不夜庵」を主宰したことにより、俳壇が形成されるほどの活況を呈した。
 文政元年(一八一八)にはこんなことがあった。頼山陽(らいさんよう)が郷里から伴った実母を、角屋南隣の「八文字屋」に案内して、宴会でもてなした。揚屋が親孝行の場に供されたのだ。
 各藩の武家屋敷の大宴会も角屋をはじめとする揚屋が担ったが、幕末になると、角屋は勤皇派の久坂玄瑞西郷隆盛坂本龍馬などの密議に使われた。
またご多分にもれず、新撰組の出入りもあったが、池田屋のような騒動は起こらなかった。ただ文久三年(一八六三)に、新撰組初代筆頭局長の芹沢鴨が角屋で遊宴の後、壬生の屯所八木邸に帰宅後暗殺されるという事態はあった。
 明治維新後は、大型宴会の需要がなくなるとともに、足場の悪さもあって、島原の町全体が衰微した。それ以降は祇園が花街の主役に取って代わっていった。

この複雑な仕組みと歴史背景とキャッチーな権威のブレンド。よくできている解説です。
歴史プロモーションの仕事をする人は、これくらい書けないといけない。


このなかに、揚屋の定義の引用があります。

揚屋の定義(嘉永六年 一八五三 喜田川守貞著『守貞漫稿』)
揚屋
あげやと訓ず。京師島原大坂の新町は今も在之。何れの年に廃す歟。今は揚屋無之唯揚屋町の坊名を在すのみ。揚屋には娼妓を養はず、客至れば太夫置屋より迎え饗すを業とする也。天神及び芸子幇間(たいこもち)も客の需に応じて迎之也。唯鹿子位以下の遊女を迎えず。

このパンフレットからは、「揚屋」というものの定義を明確にしておきたいということが読み取れ、歴史的記述の引用が添えられているのですが、この文章の中にある「娼妓」「太夫」「遊女」の3つをピックアップ抜き取っておきましょう。このグラデーションが、この建物の楽しみどころなのです。


もうひとつのカラーのパンフレットが、「よりわかりやすく、キャッチーに」するためにあるのですが、「マーケティングと文化保存のはざま」を見事にあらわしています。
注意書きに

※「もてなし」とは、客人を馳走・歓待するという意であります。

と書いてしまっているがために・・・。
「歓待」を深読みさせようとしているのか、きれいな落としどころを見つけたぜと思って書いているのか、「大★混★乱」。
「ここでヤってたんかヤってなかったんか」をハッキリ知りたい気持ちになる殿方や、うちこの中のオッサンには「ホヨヨ・スイッチ」が入ってしまう。


うちこはこのとき「京都のいいところもいやなところも、ぶっちゃけて説明してくれる京都人」と一緒にいました。なので、「商の形式や段取りの違いを "格の違い" として一生懸命説明してくれているのね」「そうや」の一言でスッキリできました。
うちこは、こういう場所や文化が好きで来ている。長崎だって、そうだった。地元の友達が芸者遊びのやりかたを教えてくれて、そんな話をしながら楽しんだ。昔遊郭のあった場所を、素直にうっとりと楽しみたい。




むかしむかし



美しい京都で



殿方が、がんばって、のしあがって、贅を尽くして



ワクワクした夜のことを。



でもここでは、そのために「吉原とはちがいます」「そうですか」という認識の儀式のようなものを求められる。
ちなみに、「太夫」と「かしの式」というのは学んでおいて、おもしろいものだと思う。大河ドラマを見ててもいまひとつその存在が理解できなかった「太夫」のこと。

(モノクロの歴史解説パンフより)

太夫
太夫」とは島原の傾城(けいせい・遊宴のもてなしを公認された女性)の中でも最高位とされ、その名称は慶長年間(一五九六〜一六一五)、四条河原で島原の前身六条三筋町の傾城が女歌舞伎を催したとき、すぐれた傾城を「太夫」と呼んだことにはじまるといわれています。したがって「太夫」は単に美しいだけではなく、茶・花・詩歌・俳諧・舞踏・文学なあどあらゆる教養を身につけていたわけであり、歴史上は吉野太夫・八千代太夫が有名であります。

大河ドラマの「武蔵」でキョンキョンが演じていた吉野太夫を思い出したのだけど、「武蔵(MUSASHI)のWikipedia」を見たら、

第14話において、上半身裸(映されたのは背中のみであった)の吉野太夫が、武蔵に対して「抱いてください」と言うシーンが放送されたが、これらの性的な表現を問題視した吉野太夫ゆかりの京都・嶋原の財団法人「角屋保存会」が、「文化人であった太夫への誤解を生む」としてNHKに対し抗議を行った。それ以前にはNHKはしばしば嶋原を番組で取り上げることがあったが、この一件以降は無くなっている。

ということになっちゃったんだって。歴史と文化とエンターテインメントの境界の問題か。
あとは、儀式の説明もちょっとおもしろかった。

かしの式
「かしの式」とは、太夫置屋から呼び、お客様に紹介する式であります。それは太夫が盛装を凝らして盃台の前に座り、盃を回すしぐさをお見せしながらそばにいる仲居が太夫の名を「あんた何々太夫さん」と呼んでお客様に紹介するのであります。

調べてみたら、「あなたのお名前なんてーの?」という意味の紹介用のネタフリではなく、「あんた何々太夫さん」=「このかたは何々太夫さんです」という意味なんだそうです。「あんた」の使い方がおもしろい。



これを踏まえてQ&Aを読むとおもしろいの。
おもしろいところだけ抜粋。
島原のQ&A」より。

Q:なぜ島原の地域名を花街(かがい)というのですか?
A:明治以降の歓楽街は、都市構造とは関係なく、業務内容で「花街」と「遊廓」の二つに分けられました。「花街」は歌や舞を伴う遊宴の町であり、一方、「遊廓」は歌や舞いもなく、宴会もしない、歓楽のみの町であります。島原は、囲郭的な都市構造でしたが、業務内容は歌舞音曲を伴う遊宴の町で、単に遊宴だけを事とするものではありません。島原の町は、和歌俳諧等の文芸活動が盛んで、ことに江戸中期には島原俳壇が形成されるほどの活況を呈しました。明治6年には「花街」の象徴である歌舞練場が開設され、「青柳踊」「温習会」などが上演されました。このことから、歓楽専門で文化のない町である「遊廓」という用語では、島原を十分に理解することができないのであります。ちなみに、遊廓には歌舞練場がありません。

うちこは正直「かぶれんじょう」の意味を京都へ行くまでわかっていませんでした。地名としてスルーしてた。京都は「ポントチョー」とか、一日二日の滞在では芸人コンビの名前と同じようにしかインプットできない語感の地名が多い。
たしかに道場があるかないかは、重要だ。ただここで「歓楽」という日本語を使っているの。

Q:島原は江戸の吉原とどのように違いますか?
A:島原の入口は当初、東口の一つでしたが、その後西口ができるとともに、島原内に劇場が開設され一般女性も入ることができました。島原は開放的な町で、天保13年(1842)以降は土塀や堀(かき揚げ堀)もなくなり、老若男女の誰でも出入りができました。そのため島原は360年間、放火による火事は皆無で、嘉永7年(1854)にわずか一回、失火によって、島原の東半分が焼失したのみであります。
 島原は江戸時代、歌舞音曲を伴う遊宴の町であり、しかも明治以降、歌舞練場を備え、「青柳踊」「温習会」を上演していたことから「花街」となります。
 それに対して、吉原は周囲に10メートル幅の堀を設け、入口を一つにして厳しい管理を行い、遊女を閉じ込めるなど閉鎖的な町でした。その結果、逃げ出すための放火が多く、新吉原時代(1676〜1866)の190年間に21回、明治期には7回もの大火が発生しています。また、吉原は江戸時代、俳壇や歌壇が存在するなどということもない、歓楽専門の町でありました。明治以降も歌舞音曲を必要としない業務であったため、歌舞練場(演舞場)も持っておりません。したがって、吉原は都市構造上からも、業務上からもまぎれもなく「遊廓」ということになります。

なにかを題材に差別化するのはどうかなぁ。と思ったりした。あのヨガは邪道だとかいう理論に似ているから。
(それにしても、あの映画の名取裕子、かたせ梨乃、西川峰子という布陣は最強だったなぁ)

Q:揚屋置屋の違いは?
A:揚屋太夫や芸妓を抱えず、置屋から太夫、芸妓を派遣してもらって、お客様に遊宴をしていただくところであります。揚屋は料理を作っていましたので、現在の料亭、料理屋にあたります。ただし、揚屋は江戸時代のみで、明治以降はお茶屋業に編入されます。
 一方、置屋太夫や芸妓を抱え、揚屋に派遣します。置屋ではお客様を迎えませんでしたが、明治以降、お茶屋業も兼務する置屋では宴会業務も行うようになりました。
 この揚屋置屋の分業制を「送り込み制」といい、現在の祇園などの花街に、「お茶屋(宴席)」と「屋形(芸妓、舞妓を抱える店)」の制度として伝えられています。これに対して、吉原などの遊廓の店は自ら娼妓を抱えて歓楽のみの営業を行い、これを「居稼ぎ制」といいます。

ここは、後に紹介する「角屋のQ&A」にも同じようなことが書いてあるのだけど、「おもてなしの商品としての女子の寮の機能はなかったので、置屋ではありません」というのが、整理した解釈。

Q:太夫と花魁(おいらん)の違いは?
A:(前半は他の解説と重なるので省略)太夫と花魁との外見上の大きな違いは、帯の結び方でも分かります。太夫の帯は前に『心』と結ぶのに対して、花魁の帯は前にだらりと垂らして結びます。

品格のことを説明されています。


続いて、「角屋のQ&A」から。

Q:角屋は遊廓の店ですか?
A:角屋は遊廓の店ではなく、今の料亭にあたる揚屋(あげや)という業種の店です。揚屋には太夫や芸妓を抱えず、置屋から派遣してもらって、お客様に歌舞音曲の遊宴を楽しんでいただくところです。揚屋は江戸時代、民間最大の宴会場でした。そこでは遊宴のみならず、お茶会や句会なども行われ、文化サロンとしての役割も果たしていました。そのため、揚屋建築は、大座敷に面した広庭に必ず茶席を設け、庫裏と同規模の台所を備えていることを特徴とします。ちなみに、いわゆる遊廓の店には、大座敷、広庭、茶席などはなく、ほとんどが小部屋のみの構造であります。

そのあと小部屋に行きたくなったらどうしていたのかが知りたいのです、みんな。

Q:なぜ揚屋というのですか?
A:江戸初期から中期までの揚屋は、間口が狭く、奥行きのある小規模の建物であったため、一階を台所および居住部分とし、二階を主たる座敷としました。その二階へお客様を揚げることから「揚屋」と呼ぶようになりました。やがて江戸中期の宝暦(1751〜1763)以降、京都や大坂の揚屋は隣接地を買い増し、天明4年(1784)には揚屋のほとんどが一階を主たる座敷にして大座敷や広庭を備え、大宴会場へと特化してゆきます。一方江戸の吉原では宝暦7年(1757)を最後に揚屋が消滅し、揚屋のない町に変化しました。

東京は東の京で、しょせんあとからできた都ですゆえ。

Q:なぜ格子造りの外観になっているのですか?
A:角屋の外観の格子は、近世初期の京都町屋に広く使用されていた格子のすがたを伝えています。したがって、江戸吉原の花魁(おいらん)を見せるための牢屋のような格子(籬 まがき)では決してありません。

形が似ているからって、混同するなよ、と。


文化保存って、むずかしいですね。
たくさんの人に、忘れられずに印象をつないでいくことが文化保存だとしたら、訪れる人の視点に合わせることも必要だと思うんです。
うちこだったら、こんな風に書くかな。

むかしむかし、華やかでいい時代がありました。
みなさんが想像してうっとりする、灯篭の明かりに映える、雅な夜の世界の話です。
この町では昔、京都の格調高い殿方の遊び場として、「揚屋」という商いがありました。
殿方の遊び場には文化的価値の高い建物がまだ残っており、○○屋や○○屋などがありますが、その「遊び」の提供内容や形式によって言いかたが異なっております。
"格調" のお話をしているので、ここは少しややこしいのですが、理解が必要です。
タテマエの裏のことは、本音ですから。
そこはみなさんの想像力におまかせするのが、歴史をしのぶ楽しみというものでございましょう。


いまは、殿方の遊びに限らず、「うっとりする遊び」が減っている。
だからこそ、こういうところで歴史を思いながら、「うっとり気分」を味わいたい。
秘めごとを秘めごとにするには、体裁が欠かせない。
そういうことを学ぶ場所として、ものすごく価値があると思うんだ。


という視点で、料金体系も含めて、少しだけ残念な場所でした。