うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

背く子 背かれる親 野口晴哉 著

背く子 背かれる親 野口晴哉 著
沖先生が共感し尊敬していた人として知ったのが数年前。その頃数冊読んだあと、五木寛之氏が野口先生の教えを何度か引用しているのを見て、いつかまとめて読んでみようと思っていたことを、この夏やってみました。
で・・・。
まんまと恋におちました(三人とも好きなの。気が多いもんで。生きてるの一人だけだけど)。
古い本ほど本音がちらほら出てくる。そして何より素敵なのは「女をバカだと思っている」ことを隠さないところ。「女の悪口を言うのが楽しい」って言っちゃうの。「バカ」というのはもちろん愛情が少しは入っています。でもほんとうに少ししかないのが、またかわいい。
もう惚れちゃってるので、てんでダメですね、わし(笑)。読みながらニヤニヤしてます。色ボケしてるんで。


この本は昭和52年の本。「潜在意識」について語っているシリーズで、題材はほかのことに置き換えてもいいと書いてあります。

<13ページ はじめに より>
無意識にそうなる心の方向付けを行おうとすることが、潜在意識教育の問題なのです。材料として「嫁と姑」を持ってきても、「病人と看病人」を持ってきても、「背く子、背かせる親」を持ってきても、要するに、その奥にある心の方向をどうやって変えていくかという問題だけですから、そういう面を覚えて、皆さんでご自分の生活の中に使えるよう、少くとも、子供とムキになって喧嘩しないよう心がけていただきたい。


(中略)


私は方法は教えないが、話の中からそれを盗んで下さい。盗んだものでなければ身につかないのです。

「盗んだものでなければ身につかない」。受け取るのではなく盗むほうが、確実に「取り」にいってますからね。

<20ページ 背かれたと思う場合 より>
人間にはみんな「我ここにあり」と、自分の存在を主張する本能があるのです。赤ん坊はそれで泣くのです。(中略)大人になって、いい所にお嫁に行くとか、いい所からもらうとかいうのも、そういう存在の主張で、別段人間の実質にいい、悪いがあるわけではないのです。

そう、本能なんですよね。その包み方の品位についてはあーだこーだ言っていいと思うのですが、「あること」は誰も否定できないから、お互いに楽しんだほうがいいよね。

<33ページ 表現と感じ方の相違 より>
左右型というのは好き嫌いで行動することは同じだけれども、その好きの表現が積極的か、嫌いの表現が内向的かで違う。
本当に好きなり、嫌いなりが言えないというのは左重心。つい好きだとか嫌いだとかいってしまうのは右重心。そういう人は、あんまり好きでも嫌いでもないような相手にしか言えないから、どの人の心も判らないし、自分の主観がない。子供を抱くときでも、どこから見ても可愛くない子供を、「まあ、可愛い」なんて抱いているのです。


(中略)


 そして好きとか嫌いとか、背かれたとか、背かれないとか簡単にいえる人は、本当にはそう感じていないで、好きだ、嫌いだと、口喧しくいう人達ほど、バーの女を口説いて言うような具合に、他の子供を好きだとか、嫌いだとか、こういうのはおかしいとか、みっともないとか、あっさり言う。その人自身が何も深く感じるものがない。いや、頭がよく働いていない。つまり前に言った、主観を他人に作ってもらっている、そういう自分の頭の働かない人達が、そういう事を強く言うようになる。

ここは体癖3種と4種の話です。「主観を他人に作ってもらっている」以降が気持ちいい。

<36ページ 表現と感じ方の相違 より>
客観情勢を丁寧に観て、いろいろな事が判ってくると、主張することも主張しないことも、背くことも背かれることも当然というように思ってしまう。その当然と思うそういう心が同情がないとか、冷淡であるとかいうように思われて、一層背くということが強く行われるというような場合もある。だから客観的にものを見ている人達でも背かれることは多い。

ここ、えぐるようにくる、すごいところ。ご本人がそうだったんだろうな、とも思う。

<139ページ 本能的に感じ合う心 より>
 私も昔、伝授会というのを開いておりまして、プロを大勢集めて、そこで人間の心の動かし方を説いていた。その中に一人だけ拈華微笑的によく判る人がいたので、それで十年説いた。その人が死んだら、あとは右というと右、左というと左、そういう木偶の坊ばかり。半年も話をしていると木偶の坊どころか卒塔婆の集まりのような感じになってしまって、説くのを止めてしまい、ついでにプロを相手に教育するということも全部やめてしまいました。

木偶の坊どころか卒塔婆(笑)。ストゥーパいわれて喜んじゃだめよ。特に真言宗の人。

<141ページ 本能的に感じ合う心 より>
戦争の直後に来ていたアメリカ人に「貴方達は戦争では勝ったが、文化は幼稚だ。乱暴で腕力は強いかもしれないが、貴方達は咲いた花しか活けない。日本人は枯れた枝だって活ける。花がない葉だけでも楽しめる。貴方達が咲いた花しか大事にしないのは幼稚だからだ。日本では小学校三年になったら、もう、ものの美しさは判る」と言ったことがありました。その美しさというものは心の開拓度合いによっていろいろ違うのです。だから人間の美しさというものは、他人に似せることではない。その人を知って、その人の中にある美しさを摑まえ出さなくてはならない。

この思いがあって「化粧をする女はバカだ」という理論なので、愛情いっぱいなんです。

<159ページ 努力は逆の空想を育てる より>
「意志と空想が争うと空想のほうが意志の倍の力になる」と言うボールドウィンの法則がありますが、自分で上手に唄おうと思えば思うほどに、下手に唄ってしまわないかという空想がいつでも二乗して働き出す。(中略)そういう心の構造を知らないと、ちょっとおかしいようなことがたくさんにあるのです。

学生の頃にソフトボール軟式野球をやっていたとき、とにかくこれをよく感じた。投げるとき。意識した瞬間に握っちゃって、どうにもならないことがあった。
そのときに、他のしぐさに織り交ぜて投球に入るとか、いろいろ自分で研究して解決していったのだけど、いまでも同じことをしているように思えることがある。

<184ページ 子供は争うことによって伸びる ─ 上手に喧嘩する方法 ─  より>
二歳の子供に、三本の矢のことを話しても通じない。それを「仲良く」なんて押しつけをしてもやはりそれは通じない。子供はお互いに争って生活をしていき、争うことによって伸びていく。争うことによって自分の欠点も知っていく。自分の強いことなり弱いことなりを知ることによって、自分はどうあるべきか、と自分の進むべき方向を知っていく。争わなければ何でもできるつもりになって、勝手なことをやっても勝手と思わず、人の困るようなことを面白いと思うだけで、思い遣りもなく、そのまま伸びていく。困らせればその厭なことが判るから、我が身をつねって人のつらさも判る。一人だったら判らないものが、二人いたら判る、それは争うからなのです。


(中略)


 空想する働きを持っているということは人間独特の力で、この働きを活用しないで、人間の能力を縛ってしまったり、不愉快なことを多くするように使うのはおかしいと思うのです。

「争わなければ何でもできるつもりになって」というのは、たしかに。次の引用内容とも繋がります。

<197ページ 強きを挫かず、弱きを助けず より>
日本人はそういう言葉に酔って、強い者を抑えつける。弱い者を大事にする。そこでみんな強い者はいなくなり、特別偉い者もいなくなってしまって、馬鹿だけが幅を効かしている。馬鹿だけが自分の力よりも影を大きく見せて、大勢の人に庇われることを期待して、あっちにもおべっか、こっちにもおべっかを使って、巧妙に立ちまわる。


(中略)


強きを挫き、弱きを助ける意味はあるけれども、そのために争いを永久のものにしてしまう。

「自分の力よりも影を大きく見せる」って、なにげないけどすごい表現。

<209ページ 「今どきの若いものは」という言葉 より>
余っている時は使い捨てにするのが真面目なのです。使い捨てることによって生産が上がり、安くできるようになり、大勢の人の仕事が増えるのですから、今の時代においては使い捨てにするほうが真面目で、汽車の中で食べたアイスクリームのスプーンなどを持って帰ることなど考えもしない。しかし古い我々の真面目というのはそんなところなのです。時代に背いていることは判らないのです。しかし自分の覚えている、それに対しては真面目なのです。

こういう全方位型の愛、ずるい。2秒でゴロニャーンってなっちゃうでしょ。
ものすごいジゴロよこの整体師。女子は全員、気をつけて!

<211ページ 野山の自然よりも人間の自然を より>
"尾瀬の自然を" と言う前に、自分の生命の自然の方がずっと大事なのです。家ではふくれて、いやだから山へ行ったなどという連中に、自然など任せられない。私はそういう意味で、自然を守ろうという言葉に抵抗を感じる。

わたしもそういう意味で、「ヨーガでつながる」という言葉に抵抗を感じる。
なにかを否定して跳ね返ってきた気持ちとなんて、繋がりたくないわい。

<240ページ 子供の独立と気力 より>
(家出した子供のことで相談にきた母親の手紙と、子供の家出の際の手紙に対して)
 文章は大変明快で、自分の言葉に酔払っている、そういう点も見られます。三種的な文字ですし、三種の言葉ですが、息子の方は少し捻れ的な字を書いております。


(中略)


 逆らうには気力が要る。逆らうという行為をもつのは一種、三種、五種、七種、九種といったような奇数体癖、力があって、何かあるとパッと鬱散するタイプの人達です、二、四、六、八、十という偶数種体癖は鬱散でなくて自己保存のタイプ、自分の生きていることで精一杯、何でも「といったことを考えているのは、気力が少いからなのです。気力のない人達は萎縮するだけで、背くということはできない。
(その後別の章で、偶数体癖の子は背きたい心はあるがエネルギーの圧縮が不十分で、それを抑えると膨れたり、不平顔になる。その足りないエネルギーで動作すると病気になると書かれており、自発的なら出る力も出てこない。凧を持っていれば気にならない寒さも、お使いだと寒いというように、そこで病気になると話されています)

字まですぐ判定される(笑)。
ここはすごくおもしろいところなのですが、有名な人というのは、凡人が見るとびっくりするくらい「自分を守るために、自分の利益のために、自分の名前のために」ということをします。力を出しきって有名になったあと、それを必死で守りたいということになったとき、力の使い方はどういうことになるのだろう。うちこは最近このことに興味があります。

<278ページ "コケコッコー" の心 より>
 意識しての心ではいろいろな表現がある。だから挨拶の長いのも、訴えの長いのも、迷惑を顧みないのも、そのことではなく、別の心の働きを満たそうとする何かがある。
 "コケコッコー" と声をはりあげている、その心の声を聞けば、相手は何もいわないでも満足してしまう。鶏などでも好きでコケコッコーと啼くわけではない。そういう体の要求、体の表現をしている。しかし人間はコケコッコーの言葉が多過ぎるのです。


(中略)


みんな同じように、つけまつ毛をし、アイシャドウでクマドリをして恥ずかしくもなく歩いている。そういうことが女の心を満足させるという中には、みんな素顔のほうを忘れてしまうものがあるからです。
 女の悪口を言っていたら講演の要旨を忘れてしまいました。こういうことはやはりどこかで痛快なのですね。もとに戻します。

その世界じゃ聖師扱いの野口氏。「こういうことはやはりどこかで痛快なのですね」って……、かわいすぎます。
ものすごいジゴロよこの整体師。女子は全員、気をつけて!(2回目)

<310ページ 人間の行動のもとにある要求 より>
(犯罪について)
手口をいろいろ調べるというが、手口は体癖的な行為です。だからその人がどういう動機を持っていても、やるとなるとその個人の体癖的感受性によって動く。「こういうところは危険だ」「こういうところは用心する」ということは、体癖によって各人みんな違うのです。例えば、三種の人は、「あの人は怒るから駄目だ」と言う。五種は「怒ったっていいじゃないか、起こる奴は怒らせてやろうじゃないか」と言うように、怒るということに対しても、三種と五種では違う。まして七種などになると「怒る奴はやっつけてしまえ」と言うことになる。同じ用心するということでも、いろいろ感じることが違うから、それに対応することも違う。そこで、ある人の手口というものはいつも似ている。全然変えたつもりでも、また同じことをやってしまう。

体癖プロファイル推理小説が書けそうですよ。

<324ページ 背きの中にある良心 より>
(経済観念の発達した息子が、親自身は自分の財産と思っているものを、息子は「自分の財産を親父に管理させておいている」と思っている、という状況の親子トラブルへの応談について)
 「それでは何故、親父の悪いところをみんなに触れまわったのか」「そうしないと不安だった。親父に自分の財産を管理させていると思うこと自体が何か不安だった」と。つまり親父の不平を積極的に言っていると気が楽になる。つまり良心的な息子なのです。親に管理させているなんていう考え方を持っては悪いと知っていたのです。その良心のかけらが、親の悪口を積極的に言わせる。「親が悪いから飛び出した」と思おうとする。親に背いていると思う良心のために、親の悪口を言い出していた。もし彼に良心がなかったら、平気で親を管理人扱いにして、死んだころ帰ってきてそっくり受け継ぐなんていう手を使ったろうと思うのです。良心があったために悪口を言う。良心があったために反抗する。悪口を言ったから、反抗したから、それが全部悪かと言うとそうではなくて、良心だったという場合も少くないのです。
 こういうように、大人なら広い意味で、そういうような面も観なくてはならないと思うのです。

そうそう。うちこは友達の愚痴を聞くのが嫌じゃない。背かない、という前提で発生することだから。
友達って、「ああごめん、愚痴だった」「ネタありきなので、ぜんぜんオッケー。ただの "かまって" だったら、そう長くは友達でいられないよ」という関係でしょ。愚痴もいえない友達とは、フェイスブックで繋がっておけばいい。いまは、便利な時代だから。
便利では片付けられない、「背景」まで見つめるエネルギーの向け先の選択を、日々迫られている時代なんだと実感する。


なんだろうなぁ、このジゴロ感。
沖先生も、きっと惚れてたんだと思う。



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