うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

スピリチュアル デトックス 光野桃 著

ソウルコレクション」と同じく、ヨガ友の家の本棚から借りてきた一冊。同じ著者さんの本は、続けて読んだ方が読みやすいので。
タイトルだけで「絶対自分では手を出さないノリだ」と思ってしまうけど、こういうきっかけで読んでみるのも、縁ですね。


わたしは普段、「スピリチュアルな話?」をしたいOLさんからそういう質問を受けがちであったりする。ヨギって、そういうイメージがあるのですかね。でも、答えはいつも「修行は、おしゃれじゃないからなぁ」というニュアンスになります。
高野山でのことなどを聞かれても「大好きなヨギの空海さんが、どんだけ険しいとこでなにしてたのか、見たかったんだ。いやー、ありゃ、しんどい」ってことになる。


この本の「いわゆるスピリチュアルな生活エッセンス」というアプローチは、基本、素敵な暮らしの延長にある。でも、あとがきで著者さんが語っていることは、違う。


引用紹介します。まずはその、あとがきから。

<244ページ 「スピリチュアル」とわたし(あとがき のような章) より>
 スピリチュアルとは何なのだろうか。それはまだ、よくはわからない。しかし見えないものが見えたり、人知を超えた超能力を得たり、表面的な癒しをやり取りすることではないことだけはわかる。それはただただ愚直なまでに、全力で目の前の出来事に取り組む、そんな生き方からしかもたらされないものだろう。泥臭く、格好悪く、どこにも近道のない、地を這うようなひとの生きる姿。

(中略)

 自分にイエスと言うこと。心の根底で卑下することなく、自分を認め信じること。それは人の生きるもっとも自然な姿だろう。その静かな幸福感は、そのひとの隣人にそっと伝わり、それから次へ、さらに次へと手渡されて、いつしか社会を、そして世界を満たしていくのではないだろうか。

自己実現に向かっています。


この著者さんは女性誌の編集者さんだった人なので、本文の内容は、いま女性誌で紹介されまくっている「スピリチュアルな特集」のエッセイをひと足もふた足も先に歩いて書かれたような印象。
ヨーガを土台にわりとガテンな修行ノリで始まったうちことはまた違うところから始まっているので、身の回りのOLさんたちにそれ的な話を求められたときって、「ああ、こういうことをききたいのかな」という参考にもなりました。

<31ページ 音の癒し、シンキングボウル より>
 シンキングボウルのセッションを受けたいと思ったが、チベット密教発祥であるということで、あまり宗教っぽいといやだなあと思っていた。そんなとき、音楽の世界から来て、シンキングボウル・ヒーリングに取り組んでいるという若いヒーラーの女性を知り、さっそく行ってみることにした。

「あまり宗教っぽいといやだなあ」という感覚がある。と言わなくてもいい風土であってほしいんだけどね、日本。たいがいのヨーガ・クラスは宗教色を消そうとするけど、うちこは「ヨーガは、宗教だよ」と言い切っています。沖先生のおっしゃるように、「自分の心のなかの宗教」という意味で。


<39ページ ヒーラーと人間力 より>
 気がつくと、背中が自分のものではないように軽くなっている。着替えて別室に行くと、鈴木さんが待っていてくれた。
「人の感情は筋肉の奥深くに入り込んでいるので、それをほぐして邪気や疲れを取り除いていくんです」と施術についての説明を受ける。

(中略)

 鈴木さんは、今まで会ったことのないタイプのヒーラーだった。「お告げ」的な感覚ではなく、「感じたのだけど、言ってもいいかしら」といったどこか控えめな物言いと、それとは逆に、グローバルに活躍しながら現実の中ではそれなりに苦労もしてきたのだろうな、と思わせるパワフルな「肉体」を感じさせるところに好感が持てた。

わたしは筋肉のつき方で人格の傾向を実践統計学的に見ていたりするので、「人の感情は筋肉の奥深くに入り込んでいる」というのが、よくわかる。
以前道場で、常連の女性陣とシャワーの順番を待ちながら雑談したとき、「男性のふくらはぎの筋肉の特徴で、自己顕示欲とそれに結びついた性欲の強さが顕著に現れている人に出会うよ。同じ傾向がある」という話をしたら、「きゃー」ってことになったのだけど、本当に傾向があると思うんです。
ストーカーっぽい動きをしがちな男性のふくらはぎ、ってのがある。
カスタネダさんとドンファンさんの教えのハムストリングの説ってのがあるのだけど、それも、激しく同感してしまう。「自分のそのときの気持ちと筋肉の動きはすごく密に結びついている」と、自身の身体観からも、思う。


<92ページ ささやかだけど、気持ちのいいこと より>
 どういうわけかわたしは、春も秋もこの時期決まって忙しく、そんな日があることをすっかり忘れてしまうことが多い。そういう人間こそ精進潔斎が必要だと思い、ある年の春分から1週間、断ちものをすることにした。自分が普段、断てそうもないものをしなければ意味がないので、飲食物ではチョコレートとコーヒーを、生活では思い切って情報を断つと決めた。仕事柄、情報断ちはかなり難しそうだが、1週間ならできるだろうと思っていた。
 予想に反して、チョコとコーヒーは1週間で音を上げてしまったが、情報断ちは難なく続いた。朝起きてもテレビをつけない。新聞も見ない。インターネットはメールのみ。もちろん雑誌も見ないし、本も読まない。これが実にすがすがしいのだ。いままでいかに余計な情報の渦の中に取り込まれていたのかということを、改めて再認識させられた。1週間、この上なくさわやかに過ごすことができ、その効果には驚いた。心身ともに洗濯をしたという気分である。

これは、情報がいっぱい取れてお得? なマーヤに包まれたいま、いちばん手っ取り早いクレンジング・デトックスだと思う。たまに旅に出るとブログを完全に放置しますが、「電波情報断ち」をしています。


<98ページ 女の聖地、沖縄 より>
 女が神となり、いまも神に近い場所に生きているクニ、それが沖縄という土地だろうか。うねるような植物の生命力と、島中に点在する古代の聖地。芸能に秀でた女性が多いということもシャーマン性を感じさせる。都会で仕事ばかりしていると、女が生まれ持ったパワーは去勢され弱ってくる。仕事をしていくために使うエネルギーは男性性のものだからだ。

斎場御嶽(せーふぁーうたき)」のことが書かれたトピック。うちこは、もう完全に去勢されている気がするなぁ……。


そしてここから先は、著者さんの北インド旅行記になります。

<136ページ 4月21日 アーユルヴェーダでカレーご法度!? より>
 いまでこそ、物理学の世界でも物質の最小単位が素粒子よりも小さい「振動」であることは照明され、振動数の違いが物質の違いとなって表れることもわかっている。それを突き詰めていくと、色は分解された光であり、音は分解された動きであり、形は音に還元できる。つまり音が原因となって形というものができる。
 しかし、紀元前1000年の時代から、色彩と音とが同じ法則で支配されていること知り、光へと変化する音をオームと表したインド人は、「すごすぎる!」としか言いようがない。本場で聴くこのマントラは、本当に霧のように光のようにこまやかな振動となって、疲れきったわたしのからだの細胞レベルにまで届き、ふわっと浮き上がるような気持ちよさをもたらしてくれた。

ほんとすごいんだよね、インド人。


<141ページ 4月22日 ヒマラヤの地で「洗礼」に見舞われる より>
 しばらく行くとまた集落があり、そこに向かって下から登ってきた女性が挨拶をしてくれた。若草色のパンジャビドレスが美しい。簡単なサンダル履きで、ここまで登ってきたのだろうか。こんな山の中で、こんなにきれいなひとに出会うと不思議な感じがする。

(中略)

 こんな山の中の人里はなれた暮らしでも、ちゃんとおしゃれしているインド女性たち。彼女たちの色彩感覚の素晴らしさは、どこから生まれるのだろう。自然環境からだろうか、長年培われてきたDNAなのだろうか。

インドに行くと、本当によくこのくそあちーところで、そんなに華やかでいられるもんだ、と思う。


<153ページ 4月23日 風の中でヨーガ、夕暮れの火の儀式 より>
 リシュケシュの町は、町全体がヨーガ祭りという印象だった。確かにアシュラムも多いし、ヨーガの聖地という場所には違いないのだろうが、ヨーガが明らかに「町おこし」の一助になっており、その分どうしても、俗っぽい気の流れになるのは仕方がないことなのかもしれない。

(中略。以下、アールティ体験中について書かれているところ)

いよいよ盛り上がってくると、ついに聴いたことのある曲が始まった。「ハレ・クリシュナ」だ。これはヒッピーの方々にはたまらないだろうな、と思いながら、ふと隣のほうを見ると、先ほどのサリーを着た二人の美しい女性が、合掌しながらゆらゆらとからだを揺らして歌いまくっていた。

(中略)

彼女たちはこのグルの弟子なのだ、とわかった。グルに美人弟子という組み合わせは万国共通なのであろうか。

「これはヒッピーの方々にはたまらないだろうな」ってところ、よくわかる。なんかそういうテンションの西洋人は実際リシケシに多いし、わたしはビートルズが大好きなヨギなので、半分同じ気持ちになって、わかる。わかりつつ、マントラの後に、般若心経を唱えなおしたくなったりして、「ああ、わたしはブッディストなんだなぁ」と思ったりする。
そして、最後の一行が、笑える!


<161ページ 4月24日 ヴェーダンタ哲学は誰のため? より>
 ヴェーダンタの極意は、あらゆるものは神であり、また空であるという仏教に近い哲学とも言われている。でにしれは難しくて、なかなか普及させにくいのだろう。英語に堪能なコーディネータのNさんいわく「ちょっとコーチングみたいにアレンジしてありますよね」。今の時代には、企業からも講演の要請が多いに違いない。頭のいいインド人のこと、そんなニーズに合わせて講演するアレンジ力は強いのだろう。

ヨガナンダさん、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーさん、ヴィヴェーカーナンダさん、シュリ・シュリ・ラビ・シャンカールさんを、わたしは「その筋アレンジ」の四天王だと思っております。センスがいい。
日本人なら、ヴェーダンタ哲学に触れたとき、「ホヨ? で、これブッダさんの仏教となんか違ったりするの? もろ般若心経だけど……」と思って欲しい。そういう人が、増えて欲しい。さあ、はじめよう写経!


<191ページ 4月27日 天文台、インド占い、そしてマハラジャ より>
 それにしても、なぜホロスコープも見ずに、わたしのことがいろいろわかるのだろう。そう訊くと「あなたの中に入っているのです」と言う。普通なら気味が悪くなりそうなところだが、よく見ると童顔で笑顔の可愛いひとなので、そんなにいやな気はしない。後でホテルに帰って赤表紙を読んでみると、先生の言ったことがそのまま書かれていたのでまた驚いた。

占い師は見た目が大事。


<205ページ 4月28日 絵の中の少年に見つめられて眠る より>
豊かになった人々がどんどん物を捨てたらどうなってしまうのか。そして、これだけ美しいサリーや繊細な織物、華麗なジュエリーなど世界有数の美しいものを生み出す国民が、自分たちの歩く街中にごみを捨て、それが溜まって腐って悪臭を放っていても平気であるというそのギャップに、ついていけないものを感じないではいられなかった。

これは実際、目で見るとうわっとくるの、わかります。「ゴミを拾う人の仕事というものが存在しているからです」という理論に面食らうのは、日本人として素直な反応だと思う。彼らの土台にある輪廻思想にまで同調しても、「それはそれとしてさ」と思うやっぱり日本人な自分もいるので、よくわかる。



これまで、人から受けるヒーリングとかリーディングとか占いというものを経験したことがないのだけど、読みながら「もしかしたらこれ、わたしはどちらかというと "やってる側" の方が多いかも」と思う箇所がいくつかありました。
先日、同僚と茅ヶ崎の海から東京へ向かう電車の中で、流れで頼まれて「みる」感じの会話になったので、思ったことを話したら、「やばいですこれ。商売にできちゃいそう」「しないよ!」という話をしたのを思い出しました。
たぶん、ちょっとだけ、その人のエゴの質(いっぱい種類がある)を感じる粒度が細かいだけなんだと思います。いっぱい人のヨガを見てきたからなのか、日々の自分ヨガで内観しまくってきた蓄積なのか。両方なんでしょうね。
でも、「本当はどうしても思い通りにしたいところがあるくせに」の「本当は」+「どうしても」とか、そういうディテールはやっぱり、信頼関係が土台にあったうえでの言葉の選択でもあったりする。だから、特別なことではない気がする。逆に言うと、表現力がなければ、まったく意味をなさないのだと思う。
みんながみんな、自分で自分を感じられるようになったら、平和になるのかな。

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