うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

下流志向 ── 学ばない子どもたち、働かない若者たち 内田樹 著

2007年の本。すごく売れた本のようなので、「それ読んだ!」という人も多いかな。
「けしからん!」と思うことだけを並び立てるのではなく、そこから多面的に分解しつつ、「性根の考え方の方程式はこういうことであろう」「それは社会がこのように変化したことによるもの」という内容。マニュアル本ではないので、「そしてこれから、こうなる」という言い切りを求める人には「意味がない」本で、そういうことを求める意識への問題提起が主軸。「ではどうすればよいか、どうなるということが書いていない」という意識の発生を掘り下げている。
著者さんは合気道のベースがあるので、著作に一貫して出てくる「身体化」という感覚に共感する素地があるかないかというのも、この本への感想を分けるひとつの要素。わたしは好きなんです。すごく。「だってそうだもんね」と思う。学びの起動の瞬間の説明に「スター・ウォーズ」と「ベスト・キッド」が出てくるし(笑)。


この本は「ヤングの身体観」を学ぶ上でも非常に興味深い本です。片山洋次郎さんの「ユルかしこい身体になる」の潜在意識ひも解きガイドとしても機能するような。「ユルかしこい身体になる」が身体へのアウトプットから社会を読む本だとすると、この内田さんのに本は「ユルかしこい考え方の成り立ち」が書いてある。
この2冊に共通するキーワードは「鈍感になる戦略」です。

 今の子どもたちと、今から三十年前ぐらい前の子どもたちの間のいちばん大きな違いは何かというと、それは社会関係に入っていくときに、労働から入ったか、消費から入ったかの違いだと思います。(38ページ 「家庭内労働の消滅」より)


社会的能力がほとんどゼロである子どもが、潤沢なおこづかいを手にして消費主体として市場に登場したとき、彼らが最初に感じたのは法外な全能感だったはずです。子どもでも、お金さえあれば大人と同じサービスを受けることができる。このような全能感は僕たちの時代の子どもがおそらくまったく経験したことのなかった質のものだと思います。(42ページ 「教育サービスの買い手」より)

「労働から入ったか、消費から入ったか」「消費主体として市場に登場したときの全能感」。するどい。



感覚的に、インフォームド・コンセントについての考え方にとても共感しました。

僕はどうしてこんなことが医療現場で推奨されるのか意味がさっぱりわからなかったのです。(118ページ「自己決定の詐術」より)

さっぱりわからないということはないけれど、わたしもこれ、始まったときにすこし違和感を感じました。かえって頼れなくなるような突き放し感があるなぁと。


ヤングの感覚について

 あきらかに自分を読者にし想定して発信されている言語記号が意味不明であっても、とりわけ不快を感じない。そういう独特な感受性の構造がどうもここ二十年くらいの間に若い世代の間に根づいてしまったらしい。(26ページ「世界そのものが穴だらけ」より)

という指摘もおもしろい。流す技術が上がっているんですよね。ここは、片山洋次郎さんの身体論とよく似ている。

<36ページ 「想定外の問い」より>
「どうして教育を受けなければいけないのか?」と問う小学生は「自分が学びの機会を構造的に奪われた人間になる可能性」を勘定に入れていません。自分が享受している特権に気づいていない人間だけが、そのような「想定外」の問いを口にするのです。


(中略)


子どもたちは以後あらゆることについて、「それが何の役に立つんですか? それが私にどんな『いいこと』をもたらすんですか?」と訊ねるようになります。その答えが気に入れば「やる」し、気に入らなければ「やらない」。そういう採否の基準を人生の早い時期に身体化してしまう。
 こうやって「等価交換する子どもたち」が誕生します。

「やせますか?」「若返りますか?」「気持ちは安定しますか?」と具体的に等価交換したがってもらえるだけ、ヨガはまだいいのか。というか、ヨガに対しては大人もやってるってことです。これ。

<151ページ 「学び方」を学ぶ より>
自分がまだ習得していない技術について、「この人の方が技術が高いから」とか「あの先生よりこちらの先生のほうが腕前が上だ」というような評定が下せるはずはない。でも、実際には評価を下している。
 それが可能なのは、「メンターを選ばなければならない」という状況に踏み込んだときに、僕たちが自分自身の手持ちの価値判断を「かっこに入れて」いるからです。自分自身の判断基準をペンディングしなければ、「判断できないことについて判断する」というアクロバシーは演じられない。
 学びは、この瞬間に起動します。なぜなら、自分自身の価値判断を「かっこに入れる」ということが実は学びの本質だからです。


(中略)


非合理性のうちにこそメンターの教育的機能は存するのです。自分にとってその意味が未知のものである言葉を「なんだかよくわからない」ままに受け止め、いずれその言葉の意味が理解できるような成熟の段階に自分が到達することを待望する。そのような生成的プロセスに身を投じることができる者だけが「学ぶ」ことができます。

「師を比較して選ぶ」ことをする人には、等価交換にレート換算を重ねる人がけっこういるのだけど、たとえそうだとしても「かっこに入れる」感覚があるということは、そこに掛け算の掛け先が生まれたということなので、学びは発動しているということなんですね。

<126ページ 「日本型ニート」より>
マルクス資本論にある1866年のイギリスでの児童労働の実情報告と、義務教育がどういう文脈から出てきた政治的権利であるかの説明のあと)
今の子どもたちに「教育を受けること」は「権利」ですか「義務」ですかと訊ねたら、おそらく九十パーセントの子どもたちが「義務」であると答えることでしょう。教育は子どもの意に反して、社会から強制されるものであるということが子どもたちにとっては前提となっている。その前提から出発するから、その義務に違背することを、ある種の「政治的異義申し立て」として捉える考え方も成り立つわけです。

きれいに整理してくださる。

<106ページ 「構造的弱者が生まれつつある」より>
 僕たちはたぶん「自己決定・自己責任」でリスク社会に単身で泳ぎだしていけると信じられるくらいに豊かで安全な社会に住んでいます。それだけ豊かで安全な社会に生きていられることは幸福なことです。しかし、だからと言って、相互扶助・相互支援のシステムが働かなくてもこの先も大丈夫かどうか、それはわかりません。


(中略)


 現代日本人は「迷惑をかけられる」ということを恐怖することについて、少し異常なくらいに敏感ではないかと僕は思います。「迷惑をかけ、かけられる」ような双務的な関係でなければ、相互支援・相互扶助のネットワークは機能しません。「誰にも迷惑をかけていないのでしょうが、それは他人に迷惑をかけたくないからそうしているのではなく、他人から迷惑をかけられたくないからそうしているのです。自己決定について他人に関与されるのがわずらわしいので、「あなたの生き方にも関与しない」と宣言しているのです。こう宣言することによって、人々は戻り道のない社会的降下のプロセスを歩み始めます。

「迷惑をかけた」フラグが立つことにも恐怖しすぎですよね。なにかを始める前から構えすぎ。そして、ものすごくまろやかで残酷な弱肉強食社会が強固になっていく。「困ったときはお互いさまよぅ」とはいうけど「迷惑をかけるのもお互いさまよぅ」とはいわない。マイナスから寄りかかられることは親分肌や「絆」で請け負う気概があっても、なんとなく日常的なちょっとしたことには「それってどうよ」となる。しんどいねぇ。




ここからは、内田先生によるとても興味深い未来予想。

<230ページ 「身体性の教育」(Q&A形式の回答)より>
 最後にもう一つ、今日触れることのできなかった論点の一つは宗教のことです。二十一世紀は、全世界的な傾向として間違いなくきわめて宗教的な時代になると思います。日本も当然この宗教性が強まってゆくでしょう。既成の宗教集団がどうなるかはわかりませんし、タレント霊能者たちもしばらくメディアを賑わせるかもしれませんが、そういうこととは別に、日本人はゆっくりと宗教的な成熟に向かってゆくだろうと予測しています。

向かうと思う。それも、大乗的な方向へ。

<203ページ 「家族と親密圏」(Q&A形式の回答)より>
 今日は悲観的な話ばかりしましたけれど、この点については僕は実はわりと楽観的なんです。
というのは、日本人って「一斉に変わる」という特性があるから。「自分探しの旅」なんていうのが流行語になると、みんなわーっとそっちへ行く。だから「自分探しはもう止めて、親密件圏を作りましょう。あれこれと迷惑をかけ合うくらいのことは、将来のリスクをヘッジするコストとしては安いもんです」という言い方だって、ある日いきなり「常識」になるかもしれない。みんな中間共同体作りに熱中し始めるかもしれない。

たしかに。「LSD非合法だってよ! どうしよー!」と瞑想やマントラへ向かう国民とは違って、社会がダメだといったら大勢の人がヒロポンをやめられちゃうんだものなぁ。ある日いきなりやってくる「常識」に、身体ごと合わせていける、中毒をも乗り越える稀有な国民。たしかにそうだ。

218ページ 「付和雷同体質」(Q&A形式の回答)より>
均質性が高いというのは日本社会の「業」のようなもので、これは変えられないし、変える必要もない、と僕は思っているんです。だって、均質性さえ維持していれば、どんな社会であっても構わないというのが日本人の「本音」なんだから。だから、社会全体の舵取りがある意味簡単なんです。レバレッジ一つで、社会の向かう方向がころりと変わる。
付和雷同」というのは悪い道でしか使われない言葉ですけれど、これはもう国民性なのだと諦めて、その「付和雷同体質」をどう効果的に、よい結果をもたらすように活用するか、というふうに頭を切り換えた方がいいんじゃないかと僕は思うんです。

ちょっと極端ではあるが、さきの引用部分での指摘と同じね。



最後に引用するここは、ズシンと響いた。

<225ページ 「時間性の回復策」(Q&A形式の回答)より>
 都市生活の中でいかに時間を回復するかというのは、すごく大きな、面白いテーマだと思います。僕の思いつきですけれども、一つあるとすれば、ルーティンを守ることです。日課を崩さない。意外かもしれませんが、都市化のもたらしたいちばん大きな変化は、人々が日課を守らなくなったということだと思っているんです。

やっぱりそこだよなぁ。心を整える生活のキモはここだよなぁ。



このブログをリピートして読むようなかたは、ほとんどの人が面白く読める一冊なんじゃないかな。
刺激的なタイトルや帯で売れた本なのだろうけど、中身はがっちり身体論なのでした。

★おまけ:内田樹さんの「本棚リンク集」を作りました。いまのあなたにグッとくる一冊を見つけてください。