うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

真実への道 ― ヨーギになった科学者の自叙伝(前半) スワーミ・ヴィラージェーシュワラ 著

真実への道―ヨーギになった科学者の自
2007年の本。70年代にIBMを脱サラして、最後はスワーミと呼ばれる人になった科学者の自伝です。
一回で紹介してもよかったのですが、最後にまとめとしてその教えが紹介されるスワーミ・ウィッデャーナンダさん(この著者さんの最後のお師匠さん)の言葉があまりにもよいので、その前後に分けて紹介します。
今日は1章〜15章まで。おもに、自叙伝の部分。


先に、この本の著者さんの略歴記載を紹介します。

Swami Virajeshwara(スワーミ・ヴィラージェーシュワラ)
1955年ムンバイ大学理学部科学科を卒業し、同大学で修士号を取る。大学で教鞭をとるが、1959年に渡米。ニュージャージー州立大学の基礎科学研究室で、1963年高分子物理学の博士号を取得。渡米後本格的にヨーガを学びはじめ、1960年に最初のグルからイニシエーションを受ける。1965年にIBM社に入社し、次世代半導体素子の研究開発に5年間携わる。ヒマーラヤを始め、世界を放浪した後、1972年に帰国し、シヴァーナンダ・アーシュラムにいたスワーミ・ウィッデャーナンダに師事。現在はインドのタミールナードゥ州北西部のアーシュラムで静かに暮らす。


この自叙伝には、著者さんの心の変化と、過程にさまざまな人の助言が登場します。カルマ・ヨーガをすすめる助言。これを読みながら、その助言が「いいなぁ」と思うと同時に、この著者さんの心の変化の描写には「俗世否定しないと探求できないんだっけ?」という感想を持つ場面が多かったです。
著者さんがアメリカで働いていたインド人であったということもあると思いますが、同時に「ああ、男の子っぽい」と思いました。


ではでは、紹介行きます。自叙伝なので、その経緯流れは紹介しきれません。抜粋部分だけで伝わることについて感想を添えます。

<63ページ 博士号 より>
 私はいろいろな所で、足を組む蓮華座で一時間くらい講義をした。これはアメリカ人の多くを驚かせた。というのも彼らは難しいパドマーサナはさておき、床に座ることすらできないのだ。また、彼らに印象を与えたのは、質問に対する単純な答え方だった。アメリカ人たちには多くの疑問が起こった。それに対して私がわからなければ、はっきりと認めて「わかりません」と答えた。あるメゾシスト教の牧師が私の明確な率直さに驚き、教会での話の後で私に言ってきた。
「あなたの『わかりません』という勇気と率直さに感心しています。アメリカにいるわれわれは自分の無知を隠し、宗教的な問題で人々を間違って導くことがよくあります」

 その人に私は科学者で、牧師ではないと言った。
「私は自分のイメージを拠り所に尊敬されたり、生計を立てる必要はありません。ですから、正直でいられる余裕があるのです。そして私が科学において正直でなければならないのと同じように、宗教的な問題でもできるだけ正直であるよう努めています」。それから私はその聖職者を元気づけた。
「あなたは私のように率直にはなれませんよ。教会や神学校に対しての責任がありますし、人々はあなたに規範を求めているでしょう。それをもしあなたが維持できなければ、彼らは宗教を信じなくなり、教会に来なくなるでしょう。しかし、あなたは彼らを間違って導かないようにするためには、彼ら自身が答えを見つけて選択をするように言えますよ」

「正直であること」の話。少なくとも、こうすることはできる。それ以上を求めなくていいのかという葛藤は、あなた自身のエゴかもね。ということが「元気づける」言葉になっている。


<69ページ 博士号 より>
 私は落ち着きを失った時に、注意深く保管していたグルからの手紙を読み、本当に慰められた。ある手紙にはこんなことがあった。

「不安にさせているのは、君のマインドだ。だから、それをコントロールすることを学ばなくてはいけない。それもヨーガのひとつだ。外側のことは魂に影響しない」

「このカリユガの時代にあっては、社会的な調和を求める必要は全くない。マインドは全く有害で、魂を支配する。マインドは放棄しようとしないが、聖なる進化に向かっていくためには、それが魂の義務である。
 欲望はマインドに属するものであり、向上心は善なる魂に属するものである。崇高な人生を送り、すべてのこと、特に科学を学ぶことはヨーガのひとつである。魂の進化を促すなら、無益なものは何もないが、ヨーガはあらゆる宗教を超えている。君が誠実であるなら、それがわかるだろう」

最初のグル、スワーミ・スーリヤーナンダさんからのお手紙の中身。「外側のことは魂に影響しない」って、いい戒め。


<72ページ 博士号 より>
 私の議論の元は本の知識であった。神秘的な力についてはヨーガーナンダのヨーギの自伝に書かれていた。それはとても魅力的な本だった。意志で自分の肉体を消したり現したり、水や火の上を歩いたり、死体を蘇らせたり、命を延ばしたり、病気を治したり、といったあらゆる願いを叶える力があれば、すばらしいだろうと当時は思った。私はグルがそんな力をもっているのかどうか、手紙に書いたことがあった。

 彼はこう返事してきた。
「ヨーガーナンダはヨーギではなく、タントリックである。従って、彼はヨーギと同じことを知り得なかったのだから、彼の書いたものには間違いがある。君はそういった本を読んでいると、道を踏み外す。今はカリユガの時代であるから、良いヨーガの本はどこにもない。精神的に救いがたい暗黒の時代だ」

 タントリックとは、超人的な力を得るために神秘的な祈祷文を使って神を崇拝する人のことだ。スワーミ・スーリヤーナンダが"タントリック"に言及したのは、偉大なヨーギを中傷するためではなく、単につまらない魔術的な力の罠から私をそらし、神を実現するという真実のヨーガのみに定着させようとしたのだ。

そう、やっぱりこのテの自伝はヨガナンダ以前・以降を認識して読まないといけない。そのうえで、このスーリヤーナンダさんは水のかけかたが、うまい。ちょっと説明の流れがマスター・ヨーダっぽいのが気になる。「暗黒」って言ってるだけか(笑)。


<90ページ ヨーギとの出会い より>
 程度の低いグループの人々に例外はあるが、皆、頂点へ登ろうとするある種の大望を育成され、少なくとも、それが組織の一員としての必要で健全な大志として考えられた。そして、各人は頂点に向かって自分の道を動かす一方で、自分の道に入ってきていると思われる他人を押しのけていた。わずかなことで満足するのは軽蔑に値する変人であり、まさに企業組織では実行不可能なことだった。人が野心的で、向上心があり、競争心がなければならない、そのゲームの名前は「動機づけ」だった。

 西洋的な感覚では、これはビジネスの成長および技術の進歩のために健全なことかもしれないが、より高いヨーガ的な意味においては個々の人間の発達に有害なことである。競争的な生活では満足することのない欲望をますます増やし、世俗的な欲望と自分自身を混同し、人生の真の目的を忘れてしまう。他人をことごとく自分の潜在的な敵として疑いと妬みの目で見ることになり、自分の思考は常に、自分の肉体、自分の欲望の対象、楽しみ、復讐と不満足に向けられてしまう。

 私は自分の仕事をカルマ・ヨーガとして行っていた。それはできうる限り無私で働き、他人が自分をどう思うかを気にしないことである。

私は少なくとも一日八時間働き、自分に支払われる分と自分に期待されている分を入念に行った。こうすることだけが心を純粋にした。カルマ・ヨーガとは、働くことを愛するために働き、成功と失敗を同様に扱い、ほめられても非難されても平静でいて、報酬を得ても罰せられても、自分のできる限りを尽くし、常に成功を目標とし、失敗しても失望しないことである。

「動機づけ」というゲームのルールは「ゲームの時間だけ」にしないと。ルールが変わっても使えるものでないとね。
「私は少なくとも一日八時間働き」と言うところがアメリカの大企業っぽいなぁと思ったりしましたが、この描写はまさに、わたしが日々感じていること。


<105ページ クンダリニー より>
 ヨーガについて誰かに話す利点は何だろう?
「人間はその構成上、こういった神聖で高邁な事柄を理解するのには下等すぎる」と、私のグルは手紙に書いていた。そして「特にアメリカ人は、この上ない無知さで君を笑うだけだろう。黙っていなさい。彼らの前にあっては黄金の沈黙が最もよい」とヨーガのイニシエーションの後にそうあった。

 ノーベル賞受賞者が、自分の高名な科学的発見や文学作品を市場では議論せず、適格でその内容を正しく認識できる人々とだけ話し合うように、ヨーガも普通の人々のためではなく、高尚なわずかな人々のためにある。もし私が自分の超感覚的体験の世界、見えない聞こえない世界、熱狂的なクンダリニーや無思考の境地の至福について仲間たちに話したら、間違いなく狂人扱いされ、陰で笑われるだろう。
 
 だから、古代の人々はその知識をしっかりと秘密にしてきたのだ。本当に誠実で、伝授された人だけが近づくことができた。

「わかりますそれ」とかって話すものじゃないね。


<115ページ クンダリニー より>
(仕事に対するエネルギーと能力が高まりはしたが、それはクンダリニーに原因があるわけではなく、三十代という活発な年代によるものだろうと冷静な言及の後)

 しかしながら、私は自分の中の新しい現象、直感力に気づいた。以前の私の技術的な問題に取り組む能力はまあ普通で、かなりじっくりと考えなければならず、それで必ずという訳ではなく、難問の正しい答えに突き当たった。しかし、クンダリニーの後、考えなければならないという訳ではなく、本当の科学的な問題の解答がどこからともなく、大した努力もせず、まるでその答えが既に準備され、私の存在のどこかに既に用意されていたかのように閃いた。時々、小説や革命的なアイディアが浮かび始め、そういったアイディアを研究室で試してみると、目を見張るような成功をしたのだ。
 クンダリニー後に気づいた他の変化は、人の顔を読んで、彼らの精神的なオーラを掴み、彼らの気質、性格、能力などを知ることができたことだ。そして、ひどい嘘つきや下品な人物でさえ極めて友好的になり、私を欺こうとはしなかった。IBMのマネージメントの幹部だったW・R氏は、いらいらとした辛辣な人物で、誰とも決してうまくやれず、彼の発する言葉には不敬な四文字がことごとく使われた。私自身も彼のことは信頼していなかったし、友人にもなりたくなかったが、彼が私のところに来て、私の仕事をひどく褒め、マネージメントレベルへの昇進を推薦したのだ。彼のこういった行為は私を驚かせた。
 他の人と協力しない人が、喜んで私とチームを組んでがんばり、連携していくといった例はたくさんあった。私は他人の気質を読めたので、自分自身の傾向をその人に合うように修正し、彼を不愉快にさせないようにして、彼の最大限のものを引き出すようにした。

これも「角がとれてなめらかになる30代」の過程かと。まわりには、ヨガ以外でこういう能力のある人は一定数いる。同様に一定数いる「そうでない人」とか「成長の天井が低い人」「疲労で天井が下がってきた人」と比べてヨガの効用を語るのは、気をつけないといけないことだな、と思う。


<117ページ クンダリニー より>
 肉体的に快楽を謹んでいても、心の中でそれを思うことは罪のある偽善者である、とバガヴァッド・ギーターでは言っている。だから、すべての教典ではヨーガの生徒は隔離された規則正しい生活を送り、規則的な食事、睡眠、仕事、社会との接触をもつことを強調している。
 食物は、思考と性欲をコントロールするための大きな役割をする。チャーンドギャ・ウパニシャッド(六・五・一)によると、食物の最も微細な部分はマインドになり、中間の部分が肉となり、最も粗雑な部分が排泄物になる。

(中略)

 道徳的であろうがなかろうが、セックスを求める人だけが、クンダリニーと性的刺激を結びつけるのだ。確かに、クンダリニーの覚醒後であっても、生物学的な欲望は体験され続けるだろうが、聖なる力が発達し始めた人は、すぐにではないにしても徐々に、基本的な性欲を昇華した状態になるだろう。そうでなければ、彼のクンダリニーはただの卑劣な色情狂か野心に過ぎない。

世の中全般、クンダリニーに関係なく、もうめちゃくちゃ背骨から遠い外側の筋肉の話でも「力=それ」に結びつけるのが男の性(さが)なのかな、と思うことがたまにある。


<123ページ ヨーガ・キャンプ より>
 蚊の一刺しで、私はいろいろと考えていたことから飛び出してしまった。どうしてこのような小さな生き物が存在するのだろう? 力の強いライオンや虎を含めてほとんどの動物たちは、優勢な存在である人間を忘れ、不必要に人間を襲うことはない。しかし、この極小な蚊という生き物は、ちょっと触れれば死んでしまうほど脆いにもかかわらず、あたかもわれわれが彼らにとっての獲物でしかないように、大胆にもわれわれに突撃して来る。
(中略)
 しかし、その血を吸う能力は、最も有能な医者がその科学技術を駆使しても恥い入る程、すばらしいものである。蚊の繊細な針は、重なった布を通り抜け、硬い皮膚を貫き、体のどの部分からでも漏らすことなく血を吸い上げる。一方、医者は注射器と長いスティール針を作るために大きな生産工場を必要とし、採血するにも太い血管からだけで、体のどこからでもできるという訳にはいかず、しかも漏らさずに無痛で吸い上げることすらできない。創造のこの上ない巧妙さに感嘆させられる。

わたしも感嘆させられた!


<123ページ ヨーガ・キャンプ より>
 直感(Intuition)はとても興味深い言葉である。表面に隠れたものを見るなら、それは豊かな意味を示唆している。サンスクリット語でもするように、ここでもその複合語を分離して判読すると、直感は、つまり内側、自分自身の真我から来る指導(Tuition)である。アートマンによって教えられるものが指導(Tuition)である。寓話的な光は直感以外の何ものでもなく、アートマンの絶対的な光、智慧である。

「自分自身の真我から来る指導」ってのが、なんかいいなぁと。


<199ページ リシケーシ より>
(ある有名なアーシュラムのスワーミ・Rと話す場面)
ウパニシャッドとバガヴァッド・ギーターをよく学んで、深く考えなさい。宇宙の一体性を知るための助けになるだろう。瞑想にさらに時間をかけ、静けさを保ちなさい。二、三時間は完全に隔離して、深く考えなさい」

 彼の意味する「深く考える」ということがあまりよく理解できなかったが、彼は間髪を入れず続けた。
アメリカでの仕事に戻ってサーダナーを続けなさい。カルマ・ヨーガは初期段階にはよいものだ。出家することは、瞑想や悟りの助けにならないし、出家にはそれ以上のものは何もない。さらに、アーシュラムで暮らせば、サーダナーからは解放されず、何がしかの仕事をしなければならない。君は若いし、科学の分野で良い仕事ができる。君の魂がサンニヤーシになる時期を教えてくれるよ」

このスワーミ・Rさんのお話、いいなぁと思いました。


<223ページ 最も小さなものより小さく、最も大きなものより大きいもの より>
(スワーミ・ヴィッデャーナンダが著者に向かって話す場面)
「そう、慈善は家庭から始まる。君は自分の兄弟を助けている。彼らにそれが必要なければ、誰か他の人でも、教育の必要な子供にしてあげなさい。しかし、いつも覚えていなくてはいけないのは、君は彼を助けているのではなくて、神に奉仕しているということだ。そして君が本当に準備ができたときにヴェーダの勉強と瞑想ができるように、ガンジス河の土手に小さな小屋を建てなさい。人生にいつその時がくるか君自身がわかるよ」

家庭のカルマ・ヨーガのお話。いい助言。「自分のカルマが悪いので、親がそうなった」と思えるくらいになれたらラクだろうな。


<229ページ ヒマーラヤ放浪 より>
 スワーミ・チャイタンニャーナンダは自分の弱点を知るのが早く、すぐかっとなって腹を立てることはほとんどなかった。たまに他のサードゥーに批判的になっても、彼は決して自分の意見を他人に押し付けるようなことはせず、話すと非常に楽しい人であった。そして私は彼から多くのこと、ヨーガや教典、出家、タパシャ、隠遁生活について学んだ。

「自分の弱点を知るのが早く」って表現が刺さりました。


<239ページ ヒマーラヤ放浪 より>
 ガンジス河のすべての支流 ── ケーダールナートのマンダーキニー河、バドリーナートのアラカナンダー河、カンゴーットリーのバーギーラティー河 ── その水が白色であるのに対して、ヤムナー河の水は水晶のように澄んで青い。この水の色の相違は、二つの河、ガンジスとヤムナーが合流するアラーハーバードに下るまでずっとはっきりしている。
 多分、神秘主義クンダリニー用語で、人体にあるイダーまたはチャンドラ・ナーディー(月の管)が、時々一般名称のガンジス河と呼ばれ、ピンガラまたはスーリヤ・ナーディー(太陽の管)をヤムナー河と呼ぶ理由の一つがここにあるのだろう。

これは、ヨギの旅の豆知識としてメモ。



前半は、サラリーマンの著者と一緒に旅した感じ。「あなたはそこにグッときたの。そう。でもあなたが軽くスルーしたあれは、わたしには刺さったわ」とか、そんな感じで、お友達と二人で旅をしているような楽しさでした。

真実への道―ヨーギになった科学者の自叙伝

真実への道―ヨーギになった科学者の自叙伝