うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

よけいなひと言を好かれるセリフに変える言いかえ図鑑  大野萌子 著

わたしは昨年の今頃、だいぶおかしな喋り方をしていたと思います。毎日一回は「ちょいと」と言っていたような。

小津映画にハマって片っ端から繰り返し観ているうちにセリフのパターンがインストールされ、今の時代だったら糾弾されまくるに違いない “パワハラもセクハラも楽しそうにやるおじさん&おばさん” を内在化させてしまいました。

 

オリンピック関連で槍玉に挙げられる権力者・年長者の失態のニュースを見ても、「サブリンに比べたら全然かわいい、ひよっこみたいなもの」と思っていました。

(サブリン=佐分利信さんです)

 

 

小津映画の世界は、インテリア・生活・服装・髪型の異様なポップさと地獄のようなセリフのギャップに中毒性があります。

女神のように美しい女性たちが「片付けるべき在庫」として扱われる不条理を見ることで精神が鍛えられます。

 

 

そんな逆コンプライアンス高地トレーニングの後でこの本を読むと頭が混乱してしまうのですが、現代に即した社会生活を送っていく上で必要なマインドセット仕入れるには、やっぱり「セリフ」がキーになります。

 

 

この本は「自分はなぜ親しまれないのか」「自分はなぜ誘われないのか」などの理由を、口癖に特化して解説するような内容。いまどきのエゴの客観的な見え方がいい感じでリストアップされています。

言いかえ図鑑というタイトルではあるけれど、「その言い方だと、こういうスタンスでいるとみなされます」とばっちり説明してくださる。

 

  • 結論を相手に委ねる自己防衛的なずるい言い方
  • 「大丈夫だよ」「そんなことないよ」と相手に言わせる子供じみたフレーズ
  • 「させていただきます」「よろしかったでしょうか」のような、いまどきの軽薄さ

 

上記のようなものがいくつも収録されているほか、口で褒めていても笑顔がセットでなければ嫉妬の裏返しであることがバレている、なぐさめのなかに比較と解釈が入る時点で信愛がないなど、けっこう深いところまでグイグイきます。

 

わたしは基本的に、特に職場で言われたことに反応が起こるときの考え方は、以下の通りです。

 

こう思うようになるまでに、社会人になってから25年以上かかりました。

ここ数年で友人から聞く愚痴・相談には管理職のつらさを訴えるものが多くなり、なんとか自制するように、なぜなら・・・という話をします。

20代までは「ありえない」「萎えるー」、30代前半くらいまでは「いるよねー」「困るよねー」という話であったのが、「ああ、ここにも。どこへ行っても絶対数あるパターン」となるのが40代。

ここまできてやっと、自分のコンディションを差し引いてどうかという考え方になってくるのですが、、、

こんなことなら20代のうちから小津映画を観ておけばよかった!!!

 

 

・・・あれ? 話が元に戻りましたね。

こんな予定じゃなかったはずです。

今日はこの本を読んで考えたことを書きたかったんです。

 

 

自分にとって反省すべきこと、ちょうど最近考えていたこと、言いかえる前が怖すぎるフレーズ、自分の場合は成長につながった言いかえるべき悪例がありました。

これら4つについて書きます。

 

1)話の横取り、割り込み

わたしはこれをやってしまって反省するのがしんどくて、短い時間での会話のときにこれをやらないように気をつけると発言がゼロに近づく、そういう極端なところがあります。この極端さが、社会のなかではものすごく幼稚なこと。

 

友人と二人で時間をたっぷり設けた会話では、両方ともそれをやった状態になるので、だからカウンセリングに近い効果が生まれるのかな、とも思っており、この本では「そういえば私もこんなことがあって」を「ちょっとだけ話してもいい? 私の話も思い出したの」と言いかえる案が出されていました。

 

 

2)経験の浅い人に向けられる言葉

少し前に小泉八雲に関する本を読んでいたときに、上の世代から「そのうちわかるさ」という言葉でかけられる若い人への呪いについて考える材料がありました。

この本(言いかえ図鑑)では「世の中そんなに甘くない」という言い方の「世の中」の括りが大ざっぱすぎると書かれていて、本当に心配な人にアドバイスしたい場合は「考えを聞かせてくれる?」と問いかけることが提案されています。

わたしはここは、「アドバイスしたい」という気持ちへの指摘が入るものと思っていたので、やや肩透かしを食らいました。

 

 

3)「私のこと、覚えていますか?」は、ちょっとしたホラー

シチュエーションとしてはよくあるのだけど、この言い方をする人はとても少ないので、ちょっとしたホラーに感じました。覚えてるかな? どうかな? というのは、思い出す側としては、じわじわ思い出したことを語るのが楽しいものなので、その楽しみを奪うことにもなります。

 

この本は一般的なマナー向けなので、「あのときお会いした大野です」と言いかえましょうとありました。

わたしはこの部分を読んだときに、企業向けのセールスの電話の人がやる「先日御社のロビーでお会いした○○です」というやり口を思い出し、「あのときお会いした○○です」も、これはこれでホラーなんだよな・・・と思いながら読みました。

 

 

4)「普通にやって」は、わたしにとっては良い指示だった

わたしは以前職場で、自分が出した案に対して「もっと普通に考えてもらえませんか」と上司に言われたことがあります。意味するところは「他社の最大公約数的なパターンと同じでいいから、ちゃっちゃと形にしてくれ」ということ。

わたしが指示する側だったらどう言うかなと考えて、「前後関係を推測したりしなくていいので」とか「いちばんよくある見慣れた感じで」などが思いつき、そこまで考えたあとで、自分を傷つけないように仕事を振ってくれたんだなと気がついたことがあります。

 

 

今日は4つ、この本を読んで思い出した自分の経験と考えを書いてみました。

「話の横取り、割り込み」のところにも書いたのですが、コロナ以降は特に、近所の人との何気ない会話や親しい人とのプライベートな会話が 、社会のなかでの会話の調整弁になっていると感じる機会が増えています。

以前は旅先での会話がその役割をしていたのだろうな、とも思ったりして。

 

 

この本を読んでいる頃に読み返していた『ヨーガ・ヴァーシシュタ』に、こんな教えがありました。

 自己抑制の欠如は無知ゆえに生じる。そうなると、人は絶え間なく好感と反感に苛まれ、「これを手に入れた」「まだあれを手に入れていない」といった想念に悩まされることになる。このような考えを抱くこと自体が妄想を強め、精神障害をもたらすのだ。また、無知とそれに伴う精神的抑制の欠如は、不摂生な食事や生活習慣へと導くが、これらが身体的な病気の原因となる。

(295より)

この本と通じるものを感じました。